「終わりの国から」


   一章


 悪夢を見たかのように目を覚ますといつものように工場の耳障りな機械音が響いていた。

この工場に勤めだしてから数か月、この騒音にも慣れてくる。

女手一つで育てられた私は高校を卒業してすぐに就職先を探すが大学を卒業することが当然のようなこの社会では私のような高卒には工場勤めが精いっぱいの就職先だった。

灰色の髪を掻くと何本か指に絡まって抜ける。

元々がさつだった私には特に不満はなかったが、この騒音に慣れるまでは一か月ほどかかった。

だが母親と二人きりのあの小屋のことを思えば朝と夜の騒音など全く気にならない。

低血圧のためか、ぼうっと頭を掻いた。

以前のような母のうるさいまでの起床のサイレンはもう聞こえない。

それでも私はいまだに五時になれば目を覚ます。

工場の寮に入寮してから数か月も経つがこの悪癖は治りそうにない。

そして何を考えるわけでもなくベッドの上でうなだれているうちに寮内に起床の放送が響き始める。

そうすれば、いつも通りの一日が始まる。

いつものように顔を洗い、歯を磨き、食堂に向かう。

朝食が終われば朝礼に向かわねばならない。

いつもと変わらないメニューをついばみ、ため息が漏れた。

朝礼は工場の中央、広まった空間にて行われる。

今日も五十も後半になるだろう工場長からのあいさつが始まった。

毎日毎日、飽きもせず同じような文句を並べられるものだ。

今日の卵焼きは少し塩辛かったな。

などと考えているうちに一筋の強い風が場内に吹き込んだ。

工場長の首から上の花束が揺れてスイートピーの花弁が舞い落ちる。

少し不安になった。


 鉄錆と腐敗物のにおいが充満する中、自分の持ち場へと足を進める。

仕事の内容は工場らしい単純作業だった。

ライン上に流れてくる棺桶に菊の花束を詰めていく作業。

最早、葬式などはほとんど執り行われなくなった現代においては遺体なぞはただのものにすぎず元人間程度の扱いだった。

人が死ねば箱に詰められ郵送される。

そうして送られてきた遺体を棺桶に詰め花束を添え最後は火葬炉へと送る。

棺桶と花束は、せめてもの手向けであった。

このような葬儀工場は提案当初こそは批判の意見があったものの科学が支配したころには誰も疑問を抱くことはなかった。

私は日に何十人もの見知らぬ遺体に花を手向ける。

生きているころにはきっと人間だったのであろうそれらは事故で死んだ者や病に死んだ者、様々であった。

中には頭のないものや全身がケロイド状になったもの言葉にはできぬほどの壮絶なものさえあった。

生前は人間だったのだろうなぁ。

などと考えながら花束を詰めていく。

花の甘い匂いが腐臭と混じりあって混沌を匂わせた。

百年前の人々は何を思うのだろうか、怒りに震えるだろうか、未来に絶望するだろうか。

などと考えているうちに、きっと受け入れるのだろうな、という結論に至る。

十数体目の遺体に花を詰め終えたとき正午のサイレンが鳴り響いた。

昼食をとるために食堂へと足を進める。

いつもと大して変わらぬ昼食を取り始める頃には食堂は人であふれかえっていた。

なんとか空席を見つけ箸を手に持つ、気が重くなるほどの塩味を咀嚼する。

午後の仕事を考えて頭が痛くなる。

「はぁ。」

溜息をついて、席を立った。


 午後六時、終業のサイレンが鳴り響く。

私は少し浮かれていた。

今日は金曜日であり、明日は土曜日であるためだ。

花の金曜日というやつである。

いつもより軽やかな足取りで寮へと足を運んだ。

夜には汚泥のような眠りに就く。


 いつもより心地の良い朝を迎えた私は普段よりも早い覚醒を終えると、黒い無地のシャツにジーンズを履く。

休みの日まで母親の幻聴は聞きたくない。

初めての給金で買った分厚いファーのついた厚手のコートを被ると茶色の少しやつれたブーツを履いて玄関のドアを開けた。

何かがいつもとは違う気がした。

腐臭と鉄錆の臭い、あの混沌から解放された私は旧市街へと足を進ませた。

かつて首都であったこの旧市街は最早、華やかさなどは失っておりくたびれた街並みと細い道が幾重にも重なって窮屈な鬱陶しさを醸し出している。

だが、この町が嫌いではない。

数十年前に新都市として開発された町は様々な色に光り輝き、笑顔の似合う人間があふれかえっている。

この町の華やかさが私は苦手であった。

かつて初めて訪れた時にはその目まぐるしさから吐き気を覚えたほどだ。

それと比べてこの旧市街は退廃的である。

すれ違う人間はみなくたびれており、うつむいていた。

数十年前に威厳を奪われたこの町はきっと息もままならぬのだろう。

それほどまでに廃れている。

私のような下級層に生きる人間の巣窟、安寧の地として機能しているのだろう。

この国民の階級層がはっきりとした現代では無理もない話かもしれない。

意味もなく旧市街にて歩みを進めていると不意に、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

ぎゃあぎゃあと何十、何百の赤ん坊の声が聞こえている。

もうこんなところまで歩いたのかと自分の足を褒めてみる。

目の前にはキコの橋。

大きな鉄橋がかかっていた。

橋の下を眺めるため橋を渡らずに高い柵のかかった土手へと近づく、そこから下を見下ろしてみると数万、数百万の赤ん坊が列をなして川を這いずっている。

この人体の成長に必要な液体と赤ん坊の流れる川は、モラルという言葉のなくなった時に完成した。

育児につかれたもの、忌子を産みたくないもの、出産を拒むものによって捨てられた赤ん坊を捨て置く場所である。

何百万もの赤ん坊がどろどろとした液体の中を這いずりまわる光景は、ここを旧市街にした要因なのかもしれない。

全てを押し付けられ捨てられた街に捨てられた赤ん坊。

いつからか町の人間は朝から晩まで鳴き続けるこの川をキコの川と呼ぶようになった。

字にはきっと鬼子か奇子と書くのだろう。

ぎゃあぎゃあと鳴き続けるその川を見つめていると視界の端に柵をよじ登らんとする一人の女が映った。

嫌な予感に焦った私は近づくと無責任にその体を引っ張る。

思ったよりも軽いその体は簡単に柵から剥がれ地面に落ちた。

「何をしているの。」

その女はしばし虚ろな目で私の足を見つめる。

「死にたい。」

彼女は一言、そう呟いた。

白のワンピースは泥に汚れてしまっている。

確かに土手から赤ん坊までの距離は高く落ちれば死ねそうだった。

私はあんな地獄で死ぬのは嫌だと思う。

虚ろな目で項垂れ続けるその女を私は気の毒に思った。

「少し、話をしよう。」

そう言って彼女に手を差し出す。

どうしてそうしようと思ったのか全くわからなかったが、このまま放っておいて寝覚めが悪くなるくらいなら少し付き合ってみてもよかったのかもしれなかった。

本当は自己満足の非日常を味わいたいだけだとも思う。

彼女は少し不安そうな顔をした後、私の目を見ると微笑み手を取った。

ほんの一瞬、何か得体の知れないものに魅入られるようなそんな感覚に陥る。


 その女を連れて喫茶に辿り着く。

旧市街にあるこの喫茶は虫の這う床に泥臭い珈琲、決してうまくはないトースターなわけだが、ここから見える景色のために私は毎週足しげく通っているのだ。

目の前にあるこの旧市街の中でも最も人の多く行き交うスクランブルを見つめるのが好きだった。

「どうして、あなたは死にたいの?」

「名前も知らない人にそんなこと言いたくないよ。」

この小さな笑みが零れてはテーブルに落ちるのが間隔的で感覚的に私を狂わせそうになる。

少しため息をつくと泥をすすって応じる。

「稲、稲穂の稲だよ。」

すると彼女はまた子供のような笑顔を作ると少し悲しそうな顔をして話始めた。

「私は葛、葛葉狐様の葛。

生まれてからずっと。」

虚空のような時間がほんの一瞬を形作る。

そして死にたかった理由も理解した。

彼女には何もなかったのだ、絶望することも、苦しみにもがくことも、飛び跳ねるほどの喜びも、何か誇れる才能も何も持ち合わせていなかったのだ。

ただ一言の名乗りでどうしてここまでを理解出来たのか私にはわからない。

ただ確かにそう思った。

しかし、この何もない存在とは対照的に私は彼女を意識し始めている。

泥に汚れているその白いワンピースも私と同じくらいの長さをした黒いショートカットも極東人特有のその黒い目も今となってはすべてが愛おしく見えた。

とても黒い母性が私の中でどろどろに溶け始めているのが手に取るように伝わってきた。

彼女が私には何もないと呟いたとき私は咄嗟にこれから生み出せばいいのだから私が協力しよう。

だから死なないでほしいと嘆いていた。

彼女は驚いた顔をしてしばらく見つめると吹き出したように笑い出す。

「どうやって?」

悪魔的な笑みを浮かべて身を乗り出してくる。

少し困惑して顔を伏せた。

後ろめたい気持ちがどっとあふれ出してくる。

彼女は少しばつの悪い顔をして椅子に座りなおす。

「こういうのはどうかな。」

ともう一度身を乗り出した。

「どこかに連れ去ってほしいな、遠くのどこかへ。」

そう言って彼女は天井を見上げる。

少し悩んだ後に彼女に視線を送ると彼女は私を期待のまなざしで見つめていた。

どこかとはどこなのだろう。

そんな疑問が頭をめぐりつつも貯金の額を思い返していた。

でも、どこかではそんなもの関係のないことのように思える。

だって私にも何もないのだから。

現実と虚構の夢が交錯する。

彼女にもう一度視線を送って答えた。

「出掛けようか。」

まるで幼い子供を誘拐してしまうような気持になった。

そして少しうれしかった。


 私と彼女は寮の近くまで来た。

旅の準備もとい金をとりに来たのだ。

寮には関係者以外は立ち入れないため入り口に彼女を待たせもう二度とこないであろう自室に入る。

押入れの奥にある小さな菓子缶の中に私のへそくりがあった。

大した額ではないが、ないよりはましだろうと思いポケットに入れる。

そして部屋を出た。

彼女を迎えに行くと質問攻めにあう。

この工場はなんの工場なのか、どんな仕事をしていたのか、寮の飯はうまかったのか。

一つ一つ丁寧に答えると、この工場での記憶がゆっくりとなぞられていく。

「地獄のようだ。」

そう呟く。

腐臭と花の甘い匂いに混ざる鉄錆の匂いは人をおかしくするに十分の臭いだった。

しかし彼女は眼をきらめかせている。

「どうして、楽しそうにしているの?」

彼女は嬉々として答えた。

「きっと死んでいった人たちは最後に稲みたいな奇麗な人に花を添えられて嬉しいと思うんだ。

稲はまるで地獄の女神みたいだね。」

私は死んだら人じゃなくなるんだとニュースキャスターが言っていたのを思い出して答える。

「死体は喜ばないよ、あれはもう人間じゃないから。」

彼女は少し不機嫌になる。

「あれは嘘なんだ。

本当は死んだって人は生きていて、この世界のどこにも自分がいなくなった時死んでしまうんだ。」

意味が分からなくて黙った。

彼女はすこし私を見つめると、こう続けた。

「だから、稲が死ねば私も死ぬんだ。」

不思議な気分になって不安になる。


 駅につくと私は適当に切符を二枚買って彼女に渡した。

「どこまで?」

「わからない。」

そう答えると彼女は笑った。

電車の中はガラガラに空いている。

私たちは一番前の車両の一番前の席に座った。

すると発車の警笛がなって電車が動き出す。

ガタリゴトリとうなりを上げるこの電車は、どこに向かっているのだろうか好奇心が湧いてきた。

車内放送が流れ始め次の駅名を告げる

沙羅双樹という駅に着いたようだった。

隣に座る彼女に目をやるとうとうととしていたので、この駅で降りることはやめることにした。

少し長い停車の後に発車の警笛が鳴り始める。

すると一人の老人が急ぎ足で乗ってきた。

なんとか間に合ったと言わんばかりに肩を揺らしている。

私はどうしてかその老人が気になり見つめていた。

しわくちゃの皮膚に白髪の頭、薄汚れたシャツに桜の花びらを乗せている。

老人はしばらく車内を見渡した後ため息をつくように息を吐く。

老人は電車が動き出しても座らなかった。

まだ春といえども5月もまわるころである。

老人は顎の先から汗を垂らしていた。

なのに老人は一向に座ろうとしない。

しだいに揺れは強くなり速度は増す一方だが老人は座らなかった。

老人の目は死んでいる。

やはり私も葛にならって眠ることとした。

あの老人を見つめていると、どうにも耐えられそうになかったからだ。


 「起きて。」

葛の声で目を覚ます。

ここはどこだろう、私は駅のベンチに座っているようだった。

「ここは終点だって、車掌が言ってたよ。」

彼女は私よりも先に起きていたようだ。

ぼぅっとした目で駅を見渡すと魔訶鉢特摩と書いてあるのが見える。

変わった駅名だなとそう思った。

切符代はいくらだろうと考えたが駅のどこにも改札はなく駅員もいない。

どうしようかと悩んでいると彼女は駅を出て行ってしまう。

慌てて追いかけていくと追いつくころには切符代などどうでもよくなっていた。

駅を出てすぐのところには鳥居が並ぶ。

お稲荷様だろうか、その鳥居の行列を前に私は彼女の名前が葛の葉狐様に由来していることをふいに思い出す。

私たちは何を言うでもなく鳥居をくぐっていた。

しばらく歩いていると本殿が見えてくる。

本殿の前には大きな狐の石像があった。

本殿も石像も立派なもののようにおもえたが近づいてみるとかなりくたびれており、ここしばらくは人もほとんど訪れていないのだろうことがわかる。

すると不意に葛が私の袖を引く。

彼女の見つめる先を見るとあの時の老人が小さな社の前で必死に祈りを捧げているようだった。

つい老人に話しかけてしまう。

「あの。」

しかし老人からの返事はなく、ただひたすらに祈りを続けるばかりであった。

耳が遠いのだろうかと私が思ったとき葛は老人に小石を投げつける。

あまりのことに葛を問い詰めようとしたが老人は祈りを続ける一方だった。

葛は私に視線を送り呟いた。

「禽華病だ。」

私は意味を理解する。

十二年前頃だったろうか禽華病という病気が発見された。

いまだに対処法のわかっていないその病気は感覚を蝕む病。

感染したものは感覚を徐々に失っていく、きっとあの老人に残されたのは視覚だけなのだろう。

老人は最後の視覚を失わぬように祈るのか、病気の回復を祈るのか。

ただただ祈り続けていた。

禽華病は接吻や性行で感染する。

キコの川を思い出し天罰だろうと思う。

なんにしろ接吻も性行も自分には縁のないものだった。

だからあの老人には同情をしない。

葛は少し悲しい顔をしているように感じる。

話題を変えようと周りを見渡すと本殿のさらに奥に大きな建物が見えた。

葛にあれはなんだろうと聞いてみると彼女は嬉しそうに行ってみようと答える。

ある程度近づいてみるとそれは民宿のようだ。

彼女に今日はここに泊まろうと提案する。

彼女も不満はないらしい。

木造の民宿は入り口に小さな看板を設けてあり少し古びてはいたが風情があるようにも感じる。

受付には老婆が一人座っていた。

「二人、泊まれますか?」

聞いたところ部屋は空いているそうだ。

安心し、いくらかと尋ねると素泊まりでいいのなら金はいらないと答えた。

老婆には表情がない。

少し得した気分になり葛と一緒に中へと足を進める。

私たちの部屋は八畳ほどだった。

葛が風呂に入りたいといったが今日はもう外に出る気は起きず明日の朝、湯屋を探そう。

そう告げて上着をハンガーにかけた。

彼女はすこし不満げな顔をしたが渋々了承してくれた。

まだ二十一時になるかならないかといった時間だったが私は眠りに落ちた。

きっと、疲れていたのだろう。

翌朝、葛によってたたき起こされた。

何事かと思って身を起こしてみると麦わら帽子を被った葛が笑顔を浮かべている。

「朝だよ、お風呂に行こう。」

私は時間が知りたくなって時計を見ると七時ちょうどだった。

「まだ、開いてないんじゃない?」

とぼやいてみたが、この近くに銭湯があるらしく朝は値段が少しばかり安くなるらしい。

受付の老婆に聞いたそうだ。

麦わら帽子も老婆にもらったらしい。

よく似合っているなと思った。

苦手な朝に目をこすりながらあの厚手のコートを手に取り部屋を出る。

受付の老婆に軽く挨拶をすませ葛に案内されて銭湯を目指す。

本当に近くだったようで五分も歩けば銭湯についた。

朝は300円なのだそうだ。

二人分の入浴料と貸しタオルの料金を払って女湯に入る。

まだ七時過ぎということもあってか客は私と葛の二人だけだった。

朝から広々と風呂に入るのも悪いものではないなと感じたが少し熱いような気もする。

葛の様子が気になって彼女のほうを見てみるとまだ体を洗っているようだった。

しばらく見ていると満足したように泡を流し、こちらに向かってくる。

彼女はすっと私の横に座るといいお湯だねと言った。

「少し、熱いかな。」

そう言うと私は湯を掬って顔を撫でる。

葛は鼻のあたりまでお湯に顔をつけ口から零れる泡で水面に波を立てた。

少しして風呂を出る。

元の服に着替えると葛は珈琲牛乳をねだってきた。

仕方なく二人分の珈琲牛乳を買うと一気に飲み干す。

甘い液体が口中に広がって湯だった体に冷たく染みる。

葛もきっと同じようだった。

銭湯を出ると私はどこに行こうかと悩んだが葛は特に考える様子もなく、ずんずんと歩き出す。

私も考えることをやめて彼女について行くことにする。

ずっと田畑が続くだけの道をひたすらに歩いていくと小さな駄菓子屋を見つけた。

そういえば朝から何も食べていなかったことを思い出し、葛に入ってみようと提案する。

彼女の了承を得ると駄菓子屋へと歩みを進めた。

駄菓子屋の戸を開くと、いらっしゃいと若い声が聞こえる。

意外にも若い女性が店番をしているその店に少し興味を持った。

聞くと少し前に死んだ母の店を継いだらしい。

少し哀れな気持ちをおぼえたが彼女は楽しそうに話すので笑っておいた。

結局、私と葛は手ごろな菓子パンと少しの菓子、飲み物を買い店を出る。

菓子パンを齧りながら歩いていると波の音が聞こえ、葛は少し嬉しそうな顔をすると音のするほうへと歩みを速めた。

少しして海が目の前に広がる。

ざあざあと波が喚き果てしなく続くその海は私たちに何かを訴えかけるようでもあった。

「こんなに奇麗な澄んだ海は初めて。」

私が囁く。

「私も。」

葛もそう答えた。

しばらくそうして見つめていると葛は海沿いに歩き始める。

それについていくことにした。

目の前で麦わら帽子を被った小さな頭が左右に揺れる。

しばらく歩いているとバス停を見つけた。

私と葛はバス停のベンチで少し休もうと近づくと中には先客がいる。

先客は黒のスーツに身を包み頭には麦わら帽子を被っていた。

ぶつぶつと何かを呟いているその姿は異様に見える。

警戒し距離を置いて座ると何を呟いているのか気になって耳を澄ませてみた。

「一塁に、ピッチャーは、バッターは、」

その男はいつかの野球試合の実況を呟いている。

不気味になって葛に言う。

「もう行こう。」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり歩き出した。

男の前を過ぎる時。

「三振、」

そう聞こえた。

声の聞こえなくなるまで歩き、振り返るとバス停の名前が目に入った。

甲子園、そう書かれた看板はかなり汚れている。

葛は私を見つめた。

「あのバス停もう使われてないんだって。」

彼は永遠に来ないバスを待ち続けるのだろうか。

私はとても不安になった。


 海沿いを歩き続けると小さな町にたどり着く。

道路の端には大きな看板が立っており蜜柑の町へようこそと書かれている。

蜜柑が名産品では今の季節は何もないだろう。

私たちは歩き疲れ、駄菓子だけでは空腹も感じ始めていたので我慢してこの町に泊まることにした。

宿を探しながら町を歩き進めていると蜜柑の甘い匂いが漂いはじめる。

今の季節に蜜柑が獲れるのだろうか不思議に思って匂いの出所を探すと、小さな直売所が目についた。

気になった私は直場所に近づいてみて店番であろう老婦人に話しかけてみる。

「今の季節でも蜜柑があるのですか?」

すると老婦人は笑いながら答える。

「この町では年中蜜柑が獲れるのです。」

品種改良とか温室とか、そういうもだろうと納得した。

しかし老婆は棚の蜜柑を手に取ると恍惚とした表情を浮かべる。

「すべてはお狐様のお恵みなのです。」

そう呟く。

宗教などというものは形だけが現代に取り残され、最早中身のない抜け殻のような存在となっているものだと思っていた私はその言葉を不気味に感じたが同時に興味をも感じた。

葛が尋ねる。

「そのお狐様はどこにいらっしゃるのですか?」

老婦人は恍惚としたままに答える。

「この町の真ん中にお社がありますので参拝してみてはいかがでしょうか。」

そう教えてくれた。

「ありがとう。」

感謝をすると老婦人はにっこりと笑みを浮かべ会釈をする。

その笑顔に言いしれぬ怖気を感じその蜜柑には触れなかった。

町の中央を目指して歩き出すと不思議なことに気づく。

この町では、すべての家に窓がなかった。

不思議に思い葛に話す。

「この町には窓がないね、お狐様が関係してるのかな。」

葛は少し黙って私を見る。

「宗教なんてものは科学に淘汰されたんだよ。」

そう答える。

とても冷たい声だった。

私たちは町の真ん中であろう場所に着いても押し黙っていた。

目の前にはお社というには冒涜的なあまりにもおどろおどろしい神聖というには不浄を象徴するかのような得体のしれない物体が佇んでいる。

町の中央は丘上になっており巨大な大木が生えていて、それを取り囲むように鳥居が並べられすべての鳥居には寄贈者の名前が彫られていた。

何よりもおぞましのは大木の根元、丘状になっている土地は丘などではなく積み上げられた赤ん坊がぎゃあぎゃあと喚いている。

大木の上部には緑が生い茂り黄色の果実を垂らす。

その果実が落ちると大量の赤ん坊がひとつの果実をめぐり渦となって奪い合いをはじめるのだ。

赤ん坊はみな狐のように目が吊り上がっており巨木の果実を食らうために、ほかの赤ん坊を蹴落とし必死に巨木を登ろうと蠢いている。

あの蜜柑を食べなくて本当によかったと思った。

「まるで、あの川みたいだね。」

葛の言葉で私は少しの平常心を取り戻す。

ここに長くいるとおかしくなるような気がして足早に先を急いだ。

この町を早くに出たい。

宿を探すことを諦め、ただ歩む。

町の外を目指している途中、私は何かに躓く。

嫌な予感を胸に下を見やると、ぎゃあぎゃあと赤ん坊が喚いている。

思はず葛に飛びついて短い悲鳴をあげていた。

その赤子を見ているといつの間にかあの時の老婦人が立っており赤ん坊を拾い上げる。

老婦人は、私たちを見るとにっこりと笑うと赤ん坊をひねりあげた。

ぎゃあぎゃあと強烈な叫びをあげて胸のあたりから裂けた赤ん坊からは、血や臓物とともに黄色の果実がひとつ零れ落ちる。

老婦人は赤ん坊を捨て果実を掴む。

「獲れたてですが、記念にいかがですか。」

そう言うと私達に近寄った。

たまらず葛の手を掴むと町の出口をめがけて走り出す。

葛は私に引っ張られると短い悲鳴を上げひきずられるように走り出した。

今夜の宿などは頭から完全に消え去る。

早くここを出たい一心だった。


 汗を流すほどの勢い走った私は葛の喘ぎ声で我に帰った。

「ごめんね。」

そう言うと彼女は息を整えようと必死になる。

「気にしないで。」

息も絶え絶えに答えた。

私が握りしめた手は赤くなっており色白な肌が痛々しい色になっている。

あの場所からはかなり離れたようで辺りは静寂に包まれていた。

私たちは完全に町を抜け、ところどころ街灯はあるもののかなり薄暗い道に差しかかっていた。

「どうしようか。」

葛に尋ねてみる。

「夜通し歩いてみるのも悪くないんじゃない?」

彼女はそう答えた。

あまりよい気分ではなかったが、そうるすほか方法はなさそうなので諦めて歩くことにする。

虫の鳴き声が響く夜道を女二人で歩く姿はとても危険に見えるだろうと思う。

悲観ばかりしていてもしょうがないと夜空を見上げてみると奇麗な星空と満月が私たちを照らしていた。

「夜道も歩いてみるもんでしょ。」

葛が自慢げに言ったのが聞こえた。

無言で頷く。

私たちは月と時折の街灯を元に歩き続ける。

今晩はほとんど休まないだろうと思う。

ずっと歩き続けた。

そのうちに少しづつ明るくなって星空も満月もどこかへ消えてしまっている頃になる。

日が昇ると不思議なもので体のけだるさが一気に増して、すぐにでもシャワーを浴びたい気持ちになった。

日が昇ってもうしばらく歩くと、ようこそと書かれた看板を見つける。

今度は普通の町であることを祈りながら町に入るとすぐのところに湯屋を見つけた。

この町は温泉が出るようで温泉宿と書かれている。

葛と顔を見合わせて喜ぶとすぐに中へと入っていった。

少しばかり値は張ったが背に腹は変えられない。

一泊分の料金を払うとすぐに部屋を出て浴場へと向かう。

最初に訪れた銭湯など比べ物にならないほどの大きさの浴場は私たちの疲れを癒すに十分に見える。

体を洗うとひとしきりの風呂をためし最後には露天風呂に浸かっていた。

この町の名物は奇麗な川のようで露天風呂からはその川が眺められる。

しばらく川を見つめていると二十代後半ほどの女性に声をかけられた。

「この町では月に一度この川に蝋燭を乗せた竹筒を流すのです。

たくさんの光が清流を流れていく様子はとても奇麗ですよ。」

そう告げる彼女はとても優しそうに見える。

「それはいつ流されるのかな?」

葛は尋ねた。

「あら、ご存知なかったのですか、今晩がその日なのですよ。」

宿泊料が高かったのはそのせいかと納得する。

「夜には露天風呂は混むでしょうから、お部屋から眺めたほうがいいですよ。」

そこまで教えると女性は風呂をあとにした。

なんだか得した気分になる。

部屋に戻ると昼食を食べるために食堂に向かう。

私はざるそばを頼み彼女は天ぷらうどんを頼んでいた。

「夕食はどうするの?」

そういう葛の問いに対して私は答える。

「夕食付きで料金を払ってるよ。」

満腹になると疲れも忘れ今夜が楽しみになった。

私たちは夜まで少し仮眠をとることにし遅めの昼寝をする。

午後六時、目を覚ますともうすぐ夕食時だということを思い出し慌てて葛を起こそうとすると彼女はもう起きているようだった。

少し眠気の残る中しばらくして夕食が運ばれてくる。

かなり上等なもので私は驚きを隠せなかった。

初めて食べるものばかりで何から手を付けようか迷っていた時、葛が不意に声を上げる。

何事かと目をやると窓の向こうに川の流れに沿って無数の光が流れていくのが見えた。

その光景に声を出せずにいた。

その光景を見つめていると葛が何かを見つけたような声を上げる。

気になって彼女の視線の先を見つめてみた。

少しばかり上流の方に大きな滝があるのが見えたと同時に人影も確認できる。

少し不安になって視線を反らそうとした時、確かにその人影が滝つぼへと落ちていくのがわかった。

どうしようもない気持ちになって嘔吐しそうな気持ち悪さを押しこらえる。

「きっと、昼間の女の人だ。」

そう、葛は言った。

「どうしてそう思うの?」

「禽華病だったんだよ。」

深くは聞かなかった。

そうだとしてもそうでなかったとしても死んだ者は人ではないのだと言い聞かせる。

しかし夕食はほとんど喉を通らず私は早くに床に就いた。

少ししてからだろうか私は葛に揺すられて目を覚ます。

「どうしたの?」

少し気だるげに答えたと思う。

「次の町へ行こう。」

と無邪気な笑みを浮かべて答えた。

時計には深夜二時の文字が刻まれている。

「やだ。」

夕食時のこともあってか一言告げると布団に入りなおした。

葛はハトが鉄砲を食らったような顔をするとまたしても私に出発を催促する。

彼女の要求を聞き続けてきた私は少しのいら立ちを覚え軽く彼女の体を叩く。

「今日はもう、嫌だよ。

いい加減にして。」

そう唸った。

それでも彼女は要求をやめない。

まるで、もう時間がないと言わんばかりに駄々をこねる彼女を初めて疎ましく思った。

飛び起きると自分のひざ元にある彼女の顔を思いきり蹴る。

足に感じる衝撃で自分の寝起きが悪いことを思い出した。

葛はすぐに立ち上がって私の頬に向かって平手を打つ。

鼻血を流しながら私を睨みつけていた。

私は口を切ったようで唇の端から血が垂れるのがわかる。

「もういい。」

葛は一言呟くと部屋を出て行った。

部屋に残った私は洗面台の前に立つと思いきり内容物を吐き出す。

そして思いきり水を飲むともう一度吐き出した。

鏡に視線を移すと自分と目が合ってまた吐き出す。

しばらく放心状態で立ち尽くしていると頭が冴えてきて自分がしたことの残忍さを思い出した。

そして彼女が死にたがっていたことを思い出して身の毛もよだつ気分になる。

コートを掴むとすぐに宿を出た。

外にはいつのまにか雨が降っている

彼女はどこに行ったのだろうか、そんなことを考えながら走っていると涙を流していることに気がつく。

どのくらい走ったろうか、とても長いようにも短いようにも感じられた。

彼女は道の真ん中でうずくまっていた。

すぐに駆け寄ると彼女を抱きしめて謝る。

彼女の体は冷え切っており鼻からは血が流れているままだった。

葛は、しばらく黙っていたが涙ぐんだ声で私の名前を呼ぶ。

彼女は私の顔をじっと見つめると唇を近づける。

初めてのキスは血の味がした。

雨が降る中、二人で手をつないで歩く。

「鼻は大丈夫?

血が出てるよ。」

「血?

ほんとだ。

気づかなかったな、大丈夫だよ。」

そう言って笑うと腕で拭う。

雨で顔に血が滲んでいる。

このまま歩き続けてどこに行くのかもどこに行きたいのかもわからない旅は今始まったかのような気分だった。

雨が降りしきる中、涙で眼を腫らした血を流す女が二人鼻歌まじりに手をつないで歩いている姿は、きっと不気味だろう。

でも私たちにはとても美しく思えた。

あの満天の星空の下を歩いた時よりも川を流れる幾百の光を見た時よりも美しく思えた。

きっと、錯覚なのだろう。

きっと、幻覚に近い何かなのだろう。

きっと、夢よりも醜い何かなのだろう。

それでも今は何よりも美しく思えた。


 目を覚ますとひどい眩暈と気だるさを感じる。

私たちはあのまま道端で眠ってしまったようだ。

どのくらい歩いたのか、ここがどこなのか、今が何時なのかもわからない。

雨は止んでいて雨上がりの臭いが漂っていた。

立ち上がって周りを見渡すと少し向こうにベンチがあることを確認する。

私の隣で眠っていた葛を抱き上げると、そこまで歩き出す。

彼女の体はひどく冷たくてとても軽かった。

ベンチの隣には見たこともない自販機がある。

たばこ、と書かれたそれはとても古いがまだ動いているようだった。

気になって一つ買ってみる。

よくわからなかったので適当にボタンを押してみた。

黒いパッケージのそれには何やら恐ろしいことが書かれていたが好奇心は抑えられずパッケージに描かれているように口に咥えてみた。

なんだか損した気分になって葛のもとへ戻ると彼女も目を覚ましたようで、起き上がった彼女と目が合う。

「それは、何?」

私が口に咥えているものを指さして彼女はきいた。

「わかんない。」

そう言って黒いパッケージを渡す。

彼女もおなじように咥えてみる。

なんだかわからなくて二人で笑った。

「行こうか。」

私はそう言うと手を差し出した。

彼女は私の手を取って立ち上がるとにこりと笑う。

なんだか照れ臭くなって空を見上げると太陽が空を陣取っていた。


 歩き進んでいると大きな町に着く。

入り口には所々擦れて見えない看板があった。

特に気にもせず町へと入る。

旧市街によく似た町だったが住民は明るい雰囲気で歴史を重ねたと言ったほうが良い汚れ方だった。

見た目こそ旧市街に似ているものの歩けば歩くほどに雰囲気は完全に別物だと感じさせられる。

なんだか良い気分になって足取りが軽くなるのが感じられた。

しばらく散策していると町のはずれに大きな時計塔を見つける。

もっと近くで見てみたくなって葛を誘うと時計塔に向けて歩き出す。

途中に小さなパン屋があったので寄ってみた。

私たちは菓子パンを買ってまた歩き出す。

それなりに歩いただろうか時計塔の足元まで来ると一層その時計塔は高く感じられた。

この上から見える景色はどのくらい奇麗なのだろう。

好奇心に支配されていくのがわかった。

だが入り口は閉鎖されており立ち入り禁止の立て札が立てかけられている。

そういえば時計の時間も十六時十六分で止まったままだった。

「残念だね。」

私は諦めきれなかったが呟く。

「嫌だ。」

そう小さく聞こえたが足取りは塔から離れていた。

町の中央へと足を進めていると小さな宿屋を見つけたので今日はそこに泊まることにする。

私たちの部屋は小さく泊まるためだけの部屋のようだった。

「少し早目に寝ようか。」

そう提案すると私たちは床に就いた。

いつもよりも早かったが体は疲れ切っていたのかすぐに眠りの世界に誘われる。


 私は小さなほとんど廃屋と言ってもいい小屋で目を覚ます。

母親ががなり立てる声が聞こえた。

なんだか長い夢を見たような気がしてしばらく混乱している。

母親の怒声は一層を増して大きくなり部屋の扉がこじ開けられると髪を掴まれたたき起こされた。

早くどこかで一人暮らしをしよう。

そして誰にも邪魔されず朝を眠ってやろうと唇を噛みしめる。

母はとても暴力的な人だった。

何かあれば私を殴り、蹴る。

暑いから、寒いから、肌が荒れたから。

私はきっと怒りの矛先でしかなかったのだろう。

一人になったときに怒りの矛先がなくなって体が破裂してしまうのを恐れた母によって産み落とされた。

きっと、それが私の生かされる理由なのだろう。

学生かばんを手に取るとすぐに家を出た。

まだ始業には早い時間だということはわかっていたが家にいたのでは気が滅入って自分が自分でなくなるからだ。

しばらく歩いて最寄りのバス停に着くとベンチに腰掛ける。

もう一度寝ようかと腕を組んで目を瞑った。

どのくらいかして、バスのエンジン音が聞こえ目を開けてかばんを持つとバスに乗るために立ち上がる。

目にビー玉をはめた運転手がこちらを見ると首が転げ落ちた。

転げ落ちた首からビー玉がころころと転がると私の足元で止まる。

それらを拾い上げて渡してやるとバス代をただにしてくれた。

今日はなんだかついてるな。

そう思った。

しかし一番後ろに座っている花束たちを見つけて嫌な気持ちになる。

できるだけ前の席に座って後ろを見ないようにした。

しばらくバスに揺られると学校近くのバス停に着いたので運転手に礼を言って降りる。

後ろで花束がくすりくすりと笑っている気がして振り向く、どの花束も笑っていなくて安心した。

前を向こうとした時、風が吹いて紫苑の花弁が落ちるのが見える。

不安な気持ちになった。

二階にある教室に着く。

一限目は何だったろうか。

などと考えていると数学の教師が入ってくる。

ノートと教科書を開いて窓の外を見た。

桜の木の下で数人の妊婦が談笑している。

桜の木は葉桜でいっぱいだった。

もうすぐに虫が湧いてあの緑を食い尽くしてしまってあの桜の木の下には誰もいなくなるのかと思うと悲しい気持ちになった。

そんなことを考えていると眠気を覚える。

まだ授業は続くのかと思うと欠伸がひとつこぼれた。


 放課後になると私は足早に教室を出て旧市街に向けて歩き出す。

そうして夜遅くまで時間をつぶして母親の城へと帰るのだ。

小さな小さなおそらく世界一廃れた城へと帰るのだ。

ちょうど校門に差し掛かった時、同じ学校の制服を着た女が一人歩み寄ってきた。

女は私に近づくとこの後の予定を聞いてくる。

旧市街に行くなどとは言えない。

「特にない、かな。」

そう答える。

「よかったら、喫茶店にでもどうかな。」

誰かにどこかに誘われるのは初めてで少し戸惑うが着いていくことにした。

彼女は私と同じくらいの髪の長さで気取ったのような見た目をしている。

身長もさほど高くはなく頼りない雰囲気を漂わせていた。

学校から少し離れた喫茶店に着くと一番奥の席に着く。

落ち着いた雰囲気で清潔感のある喫茶店だった。

「どうして、私なんかと?」

「一度、話してみたかったんだ。」

少し照れながら答える彼女は変わり者に感じる。

私などに興味を持つというのは一種病気のようにも思えたが、あまり悪い気はしなかった。

一か月ほど前に誰よりも先に学校を出る私を見つけたのだという。

自己紹介もろくにしていないことに気付いて少し笑うと女は自己紹介を始める。

楽園の園と書いて、そのと読むらしい彼女は一つ年下らしい。

その日、私は珍しく早くに帰宅すると部屋に籠って鏡を見つめた。

しばらく自分を見つめて彼女が不思議でたまらなくなる。

そうして、もうしばらくたつと朝が怖くてたまらくなって風呂に入って眠ってしまった。


 朝、いつものように目を覚ますと母が怒鳴り声をあげて近づいてきた。

その日はいつもよりいらだっていたのか顔を平手打ちされる。

そうして朝食もなしに叩きだされると、いつものようにバス停へと向かった。

歩いていると違和感を感じ鼻のあたりを撫でると血がつく。

痛みはあまり感じなかったがなんだか園のことを思い出して苦い気持ちが滲みだした。

学校に行きたくなくなってバスを待たずに歩き続ける。

風もないのに風車が回って雨も降っていないのに水たまりを踏んだ。

太陽が暑くて汗をかいて手に残る血に滲む。

このままどこに行くのかわからなくなって引き返したくてたまらなくなった。

園という女に会いたくなって頭を掻き毟る。

指に絡んだ灰色の汚い髪を見て彼女には会いたくなくなった。

そうして自分がわからなくなって自分が自分じゃなくなってしまう。

宗教が抜け殻になって無意味だとわかっても数珠をもって祈る禽華病の患者はきっと、もう数十年はいなくならないんだろう。

どうしても不安で不安でしかたなくなって私は声を上げて泣いていた。

すると誰かが駆けよってくる。

「どうしたの。」

そう慌てるようにきいてくる彼女は昨日知ったばかりの園だった。

彼女も今日は学校に行きたくなくなって外を歩きまわっていたらしい。

なんだか、こうして巡り合えたのは偶然じゃない気がした。

彼女は私の手を取って背を撫でる。

私は自分の灰色の薄汚い髪の色も痣の目立つ白い病的な肌も色素の薄い灰色の目も何もかもが嫌だと言った。

彼女は私の灰色の髪を美しいと言い白い肌を艶やかだと言い薄い瞳を煌びやかだと言う。

きっと空言だろうと戯言だろうだろうと、そう思おうとしてまた泣いた。

ひとしきり泣いて目を腫らすと彼女がそこにいることに安心する。

どこに行こうとも言わずに二人は歩き出した。


 向日葵が一面に咲き誇る丘に差しかかって歩みを止める。

彼女を見るとなんだか浮ついた気分になって思わず目を反らす。

悪い気分ではなかった。

向日葵はまるで笑っているように私たちを見守っているかのように見える。

私は嬉しくなってもう一度彼女に視線を戻す

だが彼女の顔だったものは目から、口から、鼻から幾本もの花が咲き乱れていた。

思わず息をのんで後すざる。

全身の肌が蠢いているようだった。

彼女の顔はみるみる花に包まれると花束のようになる。

辺りからは嘲笑が聞こえ始めた。

付近に群生していたあの優しい向日葵たちはけたたましい笑い声をあげて嘲笑っている。

まるで私が不幸の国のお姫様だと言わんばかりに笑うそれらは次第に溶けて薄黄色の液体になった。

私は何者かに足を引かれ薄黄色の海に引きずり込まれる。

息ができなくて何度も飲んだ。

次第に感覚がわからなくなってきて、どうしようもない孤独に襲われる。

目を開けると目の前には大きな白い鯨が泳いでいて目にはひどい悲しみを住まわせていた。

ところどころに空いた穴からは幾匹かの寄生虫がその身を揺らがせている。

鯨は私の目の前に来ると大きな口を開けた。

口の中には無限の闇が広がってどうしようもなく不安にさせる。

怖くなって全身をばたつかせ、鯨から逃げようと藻掻く。

けれども体は進まず私は飲まれた。


 短い悲鳴を上げて目を覚ます。

「大丈夫?」

そう聞いてきたのは心配そうに顔を覗き込む葛だった。

夢を見ていたらしい。

私はひどく魘されていたようで全身に汗をかいている。

彼女は私に水の入ったコップを差し出すと、また心配そうな顔をした。

「大丈夫だよ。」

そう言って水を飲み干すと時計を見る。

深夜二時だった。

葛はコップを机に戻すといたずらな笑みを浮かべて私に囁いた。

「あの時計塔、登っちゃおう。」

少し悩んだが登ることにした。

宿を出ると夜風が私たちを迎える。

夜の町は昼とは違いまるで異世界に迷い込んだかのような錯覚さえ覚えさせられた。

あの穏やかな人々は姿を消し今にもこの世ならざるものが姿を現しそうな暗黒が佇み、町を構成する一つ一つが私たちを見ているかのような恐怖を与える。

空は曇り月明りすらその力を奪われていた。

だが私たちには時計塔の頂上と言う恐怖すら凌駕する至高の目的がある。

それは壁が、石畳が、街角が、いくら私たちを睨みつけようとも崩れることのない巨大な壁となっていた。

それは誰にもばれてはいけないような気がして息を殺して動き出す。

葛を見るとひそひそと話かけた。

彼女は私を見るとにこりと笑ってひそひそと応える。

とても昔に戻った気がした。

まるで子供みたいだ。

そう思った。

静まり返った町に女が二人、息を殺して笑いあっている。

そんな光景の目的は立ち入り禁止の時計塔を登ること、私たちはファンタジーかお伽話の世界に迷い込んだようだった。

不思議の国のアリスなどは読んだことがなかったが、きっとファンタジーとはこういうことなのだろうと思った。

非日常を知るために日常しか知らぬものが思いを馳せたのだろう。

すると私たちは登場人物にでもなるのだろうか。

いつもとは違うことばかり考える自分を少し不安に思った。

葛の悪意のないあの笑みが少し私を不安にさせる。

どこか遠くの世界に連れていかれるような不安。

だが心の大半はこのお伽話に心を弾ませていた。

いつの間にか時計塔のすぐ近くまで来ていた私たちは深淵にそびえたつその塔を見上げる。

とても高く高く荘厳に感じられた。

「ここから入れそうだよ。」

葛の声が聞こえ目をやると立ち入り禁止の看板のすぐ下に人一人が通れそうな小さな穴がある。

私たちは地に腹をつけ蛇のように這って中に入った。

長い間誰も訪れていなかったのか中は埃でむせ返るようだった。

あたりは暗闇で何も見えずにいると小さな明かりが灯る。

葛が懐中電灯を持ってきていたようだ。

そういえば宿の部屋、その入り口に懐中電灯があったことを思い出す。

「あそこに階段があるよ。」

そう言われて光の先を見ると螺旋階段がずっと続いているように見える。

ところどころに罅が入り、ほこりが厚く積もっているが崩れることはなさそうだった。

「行こ。」

そう言って葛は進み出した。

私もそれに続いて歩き出す。

窓のない塔の中には小さな懐中電灯の明かりが煌めくばかりであった。

ほこりの足触りや建物の軋みが体中に染みわたって響いている。

しばらくは無言で登っていた。

半分を超えたくらいで葛が口を開く。

私と会う前、死を決意した過去を語りだす。


 気付けば孤児院にいた。

私の一番古い記憶は誰かもわからない中年の男が私を揺り起こすことから始まる。

「おはよう。」

そう声をかけられた。

「誰?」

私の最初の言葉だ。

そうして、ここが孤児院で私は孤児院に預けられたのだとわかった。

ただ誰が私を生みここに連れてきたのかは教えてはくれない。

わかったのは私の名前が葛だということ、それは葛の葉狐伝説に由来すること。

自分の名前もわからぬというのは生まれた意味のわからぬことと同じだという院長のはからいだという。

それ以外は何もわからなかった。

不安と恐怖、それすらわからぬ混沌の中で私は涙を流す。

中年の男は私の手をとる。

「どうしたんだい?」

そう聞いてくる。

深い瞳と少し濃い髭、歳を感じさせる皺が印象的だった。

私は死んでいるも同じだと、人形と変わらぬと。

そのような事を叫んだのを覚えている。

こんな人生に意味はない。

生まれもわからぬような人生に価値などない。

そう泣きじゃくる。

彼は私の手を強く握って優しく答えた。

「人は、そう簡単には死なない。

死とは観測者の喪失のことなんだ。

誰かが君を知る限り君は死にはしない。

君は、生きているんだ。」

そう教えてくれる。

それは現代の常識とはかけ離れた考えだった。

何度もその言葉を反芻して彼の手を握り返すと目を閉じて深呼吸をする。

そうして目を開けると彼は優しく微笑む。

今は昼時のようで彼は私を食堂へと連れて行った。

そこでは孤児であろう子供たちが行儀よく昼食をとっている。

年齢や性別はまばらで中にはどうして捨てられたのかわからない奇麗な子供もいた。

だが、その多くは何かを抱えて生きているのだろうということがよくわかる。

昼食は簡単な定食のような料理だった。

食べ終えると少し眠気がして部屋に戻る。

それからは毎日をそこで過ごした。

日を重ねるごとに彼に親しみを感じる。

友人もできた。

時には誰かと一緒に眠りに入ることもあった。

ここは、きっとほかの社会と比べるとずっと自由なのだろうと思う。

外の社会を知らない自分にとっては憶測でしかなかったが一年がたって年長の子らが院を出ていくと不安になった。

自分もいつかは。

そう思うと怖くてたまらなくなる。

ある日、彼に外の世界について聞いてみた。

彼はここよりも不自由だが自由だと答える。

私には意味が分からなくて首を傾げた。

彼は続ける。

「生きていればわかるさ。」

そう囁いた。

少しだけ怖くなくなったように思う。

そうして二年が過ぎてあの日が来る。

すべてが一瞬にして消え去るあの絶望の一夜が訪れた。

春の暖かい風が人を狂わせるように、きっと春のあの一夜が私を狂わせたのだ。

その日は彼が私の枕元に座って何か話を唱えてくれる日。

彼の優し気で落ち着いた低く鼻にかかった声が私は好きだった。

いつもより早く床について彼を待ち侘びる。

少しして彼がやってくると私は微笑んで急かした。

彼が座って口を開いた時数発の銃声が鳴り響く。

彼は立ち上がると意を決したように部屋を飛び出していく。

私はどうすればいいのかわからなくてただ茫然としていた。

銃声や悲鳴、人の動き回る音が響き始める。

少しして彼が戻ってくると私を抱きかかえ裏戸へ向かって駆けだした。

私を外に出す。

「町のほうへ走りなさい。」

そう口早に言った。

彼と一緒にいたくて嫌だと叫ぼうとした時、銃声とともに彼の喉元が弾け飛ぶ。

彼は何とも言えぬ顔をして私に微笑むと私を押し飛ばして裏戸を閉めた。

叫びながら走り出すと少し近くの草むらに倒れこんで動けなくなる。

そのまま仰向けになって茫然としていた。

星空が奇麗な夜だった。

あまりにも満天の狂ったような星空。

結局私は生き残り孤児院の職員や子供たちは皆死んでしまった。

強盗目的の二人組による犯行だったらしい。

院には火を放たれ金目のものは全て盗まれていた。

観測者の喪失。

その言葉が頭よぎった。

その頭のままで彷徨い歩いて旧市街に辿り着きあの川を見ていると、ここが終わりなんだと、そう感じたんだ。


 全てを話し終えた彼女は少し満足気であった。

私は何も言葉を発することができずにいる。

すると彼女は続けた。

「でも、今私は生きてるよ。」

そう言って私を見つめる。

こみ上げる感情がわからずに、その目を見つめて微笑む。

そうこうしているうちに最上階に到着したようだった。

この扉の向こうに昼間に焦がれ続けた時計塔の頂があるのかと思うと胸が高鳴る。

扉を握るとノブを回す。

鍵はかかっていないようで音を立ててドアは開く。

きっと錆のためか少し重く感じられたが問題はない。

ドアを開け私たちは息をのんだ。

その日は満月のようで丸い月が私たちを見つめていて星々を一面に引き連れていた。

きっと塔を登っているうちに雲が晴れたのだろう。

宿を出たときは比べ物にならないほどの強烈な月明りに明るく照らされていた。

屋上には柵も何もなく風が私たちに向かって吹き付ける。

今はそれすらも心地よく感じられる。

吹く風の一つ一つが私たちに何かを囁くようだった。

冷たいが暖かい風は全ての不安を追い払っていく。

きっと彼女とならどこへでもいけるだろう。

そんな気さえする。

彼女と出会えたことが、こうしてここにいることが奇跡だと思った。

私は葛の名前を呼ぶ。

囁くようでいて強く強く声に出して呼ぶ。

葛は私に向き直して微笑むと目を閉じ懐中電灯の明かりを消した。

彼女の細い体を抱きしめ目を閉じてキスをする。

それはとても長い時間のように感じた。

小さな永遠の中に閉じ込められたようなそんな気分になる。

同時に、この唇を離してしまえば全てが終わってしまうような彼女はどこか遠くへ行ってしまうような気持になった。

今度は私の過去を打ち明けようそう思った。

これからの旅を想像して気持ちが高鳴った。

これまでの旅を反芻して気持ちが安らいだ。

私は強く抱きしめると深く深くキスをした。

唇を離し彼女の顔を見ると私に微笑みかける。

私も微笑みかけてまた抱きしめた。

彼女は私の耳元で囁く。

「私、禽華病なんだ。」

思はず彼女と距離をとってしまう。

彼女はまた私に微笑みかけて呟く。


「さよなら」


目の前から彼女が消えた。