「蠅の女神、魔人」


 総合病院についた私はすぐに柏木 蘭子に会わせろと受付に訴えた。

彼女はこの病院に保護されているという扱いの女で、あの柏木 凛檎の姉である。

いや正確には蘭子を偽る何か。

あの女にその真相を聞きたかった。

本当は何者であるのか、いや私は薄っすらとだが気が付いている。

彼女の正体が何なのか私はその確信を恐らくだが知っている。

何にせよ、早く彼女に会う必要があった。

だが実際問題彼女は病院に保護されている病人だ。

そう簡単に会えないということはわかっていた。

だが、それでも私は急がねばならない。

時間がない。

そんな焦りが私を正常な判断から遠ざけていく。

もし私の憶測が正しいのであれば、これ以上柏木 蘭子を放置しておくことは危険でしかなかったからだ。

アポを取れとうるさい受付に見切りをつけると私は病院の中へと走った。

後ろから怒声や何人かの追ってくる音が聞こえるが私にそんなことにかまっている暇はない。

一刻も早く柏木に会いこの憶測を確かめなければならない。

幸い彼女の病室を私は覚えている。

何度か他の患者にぶつかりそうになるが私は速度を緩めたりはしなかった。

少ない私の体力が切れそうになるが気力で走り続ける。

予想外にも私はそれなりに走れるようだった。

彼女の病室が見えてくる。

その扉を勢いよく開け放つと中に入り、扉を閉めた。

瞬間、今までの騒音が嘘のように消え去った。

静寂が訪れる。

柏木はベッドの上で上半身を起こし窓の外を見つめている。

窓の外には緑の空が広がっていた。

悍ましい、緑色の空だった。

人は慣れる生き物なのだと気づかされる。

「お前はあの日を見ているはずだ。」

私は背部を向ける柏木に話しかけた。

むしろ緑の空が私を落ち着かせたのかもしれない。

「柏木 蘭子、いや信貴 綾。」

その声に反応してか彼女はゆっくりと振り返る。

「私は蘭子ですよ。」

私は彼女に煙草の箱を投げつけた。

彼女はじっとそれを見ている。

「発狂するふりはしなくていいのか?」

ゆっくりと彼女ににじみよった。

「どうして、そんなことをするのですか。」

彼女はとぼけたように応える。

どこまでも落ち着いていて冷たく静かであった。

「凛檎は言っていたんだ。

柏木 蘭子は、本当の姉は殺されたと。

お前はもう死んでいるはずだ。

お前は誰だ、信貴かそれとも信貴でさえも偽物だと言うか。」

彼女は笑い始めた。

「気づいたんですね。

そうです、私は蘭子ではありません。

かといって信貴かと言われれば、わかりません。

最早、元が誰なのかわからなくなっています。

こうしている間にも私は増えているでしょうね。」

私は銃を突きつけた。

「正確に答えろ。」

私はもうかつての私を忘れたりはしない。

お前を殺すことに何の抵抗もありはしない。

女は微笑んでいた。

とても暖かい聖母のような慈しみの笑みで、

私は思はず、この女は悪人ではないのかと疑ってしまうほどであった。

「気づかないですか。

私も被害者だということに。

妹が両親をどこかへ隠してしまった夜、私は妹から逃れるべく夜の世界へと駆け出していきました。

空の色は忘れてしまいましたが恐怖からか、正常な判断ができなくなっていたのでお許し願いたいです。

幼い頃いつも両親と遊んでいた公園へ足を運びました。

闇夜の遊具は幻想的で目を細めれば両親と私があのブランコで遊んでいる様が手に取るように見えました。

いえ、本当に見えたんです。

確かに私たちがそこにいました。

声をかけてしまったのが運の尽きだったのかもしれません。

ゆっくりとこちらに振り向いた彼らはその瞬間には私たちでなくなっていましたから。

幼い私ただ一人を残して、ですが。

両親だったものは案山子か何かになっていました。

幼い私だけが、そこで生を持っていてゆっくりと近づいてくるのです。

私は、私に抱きしめられて涙に崩れました。

正常でなくなってしまったことになのか両親が案山子になってしまったことになのかはわかりません。

或いは両方でしょうか。

そんな感傷もほんの束の間で、すぐに鋭い痛みが私にあらわれます。

皮膚を鋭利なもので切り裂くような、そういう痛みです。

音を立てて皮膚が剥がれた時、死を感じることができ横になって倒れました。

公園に設置されたゴミ箱から妹が私を見ていることにそこで気が付きました。

その時のことは覚えています。

空は緑色をしていた。

皮膚が破れ、肉が破れ、遂には骨が捲れあがろうとしていた時たくさんの星が降るのを見ました。

幼い私がこちらを覗き込む顔も覚えています。

星降る夜にまた会おうと言われて、意識を失ったんです。」

柏木の目は絶えずどこかを見ようと動き続けていて気味が悪かった。

「あなたは本当にあなたですか?」

彼女の問いに私は戸惑ってしまう。

「あなたが信貴や柏木でないという確信がありますか?」

女は微笑みをそのままに毒の浸み込んだ、悍ましい問いを私に投げかけ続ける。

窓の外では星がいくつもの星が降り注いでいる。

「星の降る夜です。

再会を喜びましょう。」

女は祈るように外を眺めている。

私は、貴船、本当にそれで正しいのか。

自分が自分でわからなくなりはじめている私にとってはそんな光景は頭に入っては来なかった。

私があの時、見た光景は本当に私のものか。

いや私は殺されたことなんて一度もないんだ。

私が信貴であるはずがない。

私は何度も自問自答を繰り返す。

柏木は立ち上がり、私に歩み寄った。

「ここで私を殺すならば、殺すといい。

でも、この世界に大量に散らばり今尚増え続ける私たちをどうやって殺しきるのだろう。

君さえも私たちなのかもしれないというのに。

疑わしき全人類を殺して君も死ぬか?」

女の声が空に響いた。

いつの間にか開け放たれた窓から冷たく湿った風が吹き込んでくる。

「そうだ私を殺して信貴に会いに行くというのはどうだろうか。

そうすれば、わかるんじゃないか。」

柏木が銃口に自ら頭部を押し当てる。

「さぁ、引き金を引いてください。

「私はもう蘭子でいることに疲れたんだ。」

初めて見せる感傷的な表情が冷たい氷のように見える。

私は左手で自らの頭を押さえた。

髪を握りしめ歯を噛み締める。

「私は。」

銃声が響いて私と真っ白な病室に血が付着する。

脳を零し、眼球を破裂させて倒れ込む彼女は最早、一体誰だったのかわからなくなっている。

「信貴。」

私はその名前を呟くと、窓の外に体を大きくせり出した。

大きく風が吹き込むと肌寒さを覚えて身震いする。

窓枠に足をかけ勢いよく飛び出す。

死を望んだわけではない。

地面に突き当たり、死ぬわけではなく私は1つの長い廊下に着地した。

見覚えのある、信貴の監禁されている部屋へと続くあの廊下。

だが窓から差し込む光は緑色をしていて、私の他に誰もそこにはいなかった。

足音を響かせてその重い扉へと向かう。

扉に手をかけると、これですべてが終わってしまうようなそんな不安に駆られる。

だが真実を知りたいという私の探求心が、好奇心が逃げることを許さない。

扉を開け室内に電気を灯す。

信貴はアクリル板の向こうで拘束具に身を包みじっと地面を見つめていた。

「信貴 綾。」

私はその女の名前を呟く。

彼女は私に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向くとあの聖母のような微笑みを見せた。

「気づいたんだね。」

彼女の声はか細く、どこか聞きなじみのある落ち着いた声色をしている。

「お掛けになってはどうですか。」

彼女に言われるがままに対面の椅子に腰かけた。

「君は信貴なのか、それとも別の誰かなのか。」

私は混乱する頭の中で出来るだけ最善の言葉を選び投げかける。

「さあ、わかりません。

私も、私の内の一つでしかないということしかわかりません。」

その微笑みに狂気も恐怖も、何も感じない。

ただ心地の良い微笑みであった。

言葉が上手く紡げずに無言になってしまう。

静寂が訪れた。

どのくらいだろうか。

じっと二人は見つめ合ったままであった。

「それじゃあ、まずは私の話をしようか。

佐々木 真那津の話を。」

彼女がその静寂を破った。


   「皮膚、殺人、味」


 「私が初めて人を殺した時からでもいいのかな。」

まるで佐々木 真那津になったかのように振舞う。

目の前で貴船が息を飲んで私を見ている。

失った右目に手を当てると布越しにもそのざらつく爛れた皮膚がわかるように思えた。

「いつだったかとかは覚えていない。

近所に住んでいた少年だったということは覚えている。

少し離れた所にある私立の小学校の制服を着て毎朝私の住むマンションの前を通っていた。

私が幼い頃、父はアルコール中毒で母は熱心な宗教家だった。

まるで漫画の世界みたいじゃないか。

よく殴られたのを覚えている。

そうだ、一番痛いのは舌に根性焼きをされることだよ。

父は酔うとよく私にそれをした。

だから私は物の味を知らないんだ。

幼い頃からずっとそうだったから。

それは家族の元を離れて一人暮らしを始めても治らなかった。

本来なら一、二年で治るはずだと医者にも言われたが治ることはなかった。

精神的なものだと思う。

味を感じた時、父がどこかへ行ってしまうような気がしてそれを孤独なことだと感じていたから私は味を知らぬままに死んだんだ。

まぁ、そんなことは別にいいとして私はあの小学生が憎たらしくてしょうがないと思うようになっていった。

でも感謝もしている。

私の中に渦巻くどうしようもない感情のはけ口になってくれていたのだから。

彼を見て憎悪の対象とすることで満足していた。

それ以上のことは何もしなかった。

殺そうだなんてそんなこと微塵も考えてはいなかったんだ。

1か月くらい、そんな時間を過ごしていたと思う。

平穏は長くは続かないものだと気づかされることになる事件が起きる。

私はたった一言で崩壊することになった。

いや救われたと言った方が正解かもしれない。

あの少年のおかげで私は私になることができたのだから。

ある朝、私はその日どうしてかいつもより早くに起きてマンションの外で煙草を吸っていたんだ。

その時間は少年が前を通る時間だというのに呑気なものだったと思う。

きっと厳格で暖かい家庭で育てられたのだろう彼はその日も時間通りに前を通ったよ。

おはようございます。

たった一言だった。

たった一言そう挨拶されただけ満面笑みを浮かべてそう挨拶されただけで私はおかしくなってしまった。

ああ、殺してしまおう。

そう考えるに至るに十分だった。

でも私は計画を立てたりとか、そういう類のことは苦手だ。

きっと幼い頃に父に殴られた衝撃で頭の中がおかしくなってしまったんだと思う。

だから、この少年を殺して私も死のうと思ったんだ。

計画も何もない、すぐに実行に移したよ。

運命は衝動、衝動は運命だからね。

それから1週間くらいは平日は必ず朝にそこで煙草を吸って挨拶をするようにした。

ある程度顔見知りになることができればそれで十分だと思っていたし辛抱強い人間ではないから。

そういう所は父によく似ているんだ。

実行すると決めた日は胸が高鳴った。

隣の部屋まで聞こえてるんじゃないかと思ったよ。

少し早くに起きて空の段ボール箱をいくつか外に並べたんだ。

彼が通った時、挨拶と一緒にこう言った。

運ぶの手伝って欲しい。

優しい彼はすぐに了承してれて助かった。

何も言わずとも部屋の中まで運んでくれたのだから。

あまりにも優しいものだから空の段ボールの重みさえもわかりはしない。

彼が部屋に入ったのを見て鍵をかけ包丁を持って脅した。

騒ぐなって、彼は素直ないい子供だ。

じっと静かに私の言うことに従ってくれた。

椅子に座らせて話をした。

すぐに飽きたけど、いい時間だったと思う。

なんだか面倒になってきて口にガムテープを貼った。

手足ももちろん縛ったよ。

少し骨が折れたけどなんとかなるものだね。

その後は知ってるだろう。

ガムテープを剥がして口の中に手を入れて引っ掻きまわした。

口の腕入っていても声がそこそこ漏れて怖かったよ。

あんまり暴れるから心臓を刺したんだ。

そしたら嘘みたいに静かになって、動かなくなった。

これが最初の犯行。

運命だ。

運命がそうさせた。

私に与えられた唯一の特権、それは運命。

私が殺した彼らは皆、私と言う運命の衝動に巻き込まれた幸福な魂。

なんでもない魂が運命の一部になったんだ。

だから、私も彼らも感謝しているよ。

後は報道されてる通りさ、家に忍び込んだり待ち伏せしたり。

あの緑の空が無ければもう数人は殺せていたのに、そう考えるとデカラビアが憎く思う時もある。

そんなことはどうでもいいか。

君に殺されて本当によかった。

私は寄生虫なんだ。

薄気味の悪い寄生虫のような運命さ。

ありがとう、貴船 貴子。」

私は今の今まで誰と会話をしていたのかわからなくなっていた。

目の前にいるのは間違いなく佐々木だった。

だが佐々木は間違いなく私が殺しついさっきまでこの女は信貴だったはずなのに。

頭がどろどろに溶け始めていた。

佐々木の吊り目が私をあざ笑うように揺らめいている。

彼女は立ち上がると背を向けてどこかへと歩いていく。

星空の彼方へ行こうとしている。

放っておいてはいけない。

そう直感する。

私も立ち上がり、彼女を追った。

ゆっくりと歩みを進めている彼女に追いつくのは容易であった。

ただ星空がその姿を変えるには時間は十分すぎたようであった。

一直に降り注いでいた星々はその軌道が奪われぐるぐると空を舞い始める。

振り返る佐々木に拘束具はなく、その手を大きく広げると空を見上げた。

「私の青虫は蝶にはなれないんだ。」

あの時と同じセリフを吐きながら。

きっとあの星々には気味の悪い芋虫が何匹も纏わりついているのだろう。

佐々木の上空をぐるぐると回り続けている。

大地は炎に包まれ始め私の背後から群れ始めた蠅たちがその炎に焼かれ火の粉のように飛び回った。

その炎に私が狼狽えていると遠くから轟音が鳴り響いた。

大きな列車がこちらに向かって炎をかき分け突き進んでいる。

列車というよりは汽車といったほうが近いかもしれない。

線路もないのに真っすぐとこちらに突き進むと佐々木の背後にその身を止めた。

この汽車はこの世界から本当の世界へと続いているそんな風に感じる。

私は動けないでそれをただ見つめている。

佐々木はそれに乗り込もうとし始めるので私は追いかけようと足に力を込めた。

だが中々前に進むことができない。

声を出して己を鼓舞すると思い切り頬を叩く。

ようやく動くようになった足で一歩を踏み出す頃には佐々木は乗り込み、汽車は動き出そうとしていた。

もう一度声を上げると何度も足を動かしてそれに飛び乗ろうとする。

ゆっくりと動き出そうとしているように見えるが飛び乗るとなると中々に難しいものだった。

私がどうにかこうにか飛び乗れたのは結局最後尾で佐々木が乗った先頭とは最も離れた場所になってしまう。

追わなければ車窓の外に見える炎と星空がここは地獄だと言わんばかりに流れている。

前の車両へと向かわんと扉を目指そうとするが車窓に反射する私が止まれと声をかけてくる。

今は急がなければならないというのに私はそれが気になって仕方がない。

反射する私に声を荒げ何だと問いかけた。

「私を受け入れろ。」

ただ、そう答えるだけであった。

「くそ。」

私は何が何だかわからなくなる。

混乱する頭で車窓に向かって詰め寄ると私にキスをした。

何かに抱きしめられるような感覚に陥る。

暖かい胎児に戻ってしまうような不思議な感覚であった。

炎に炙られ、疲弊しきった精神が満たされていく。

「佐々木を殺すまではもう忘れないで欲しい。」

そう囁かれたような気がしてそっと頷いた。


 「怪人、魔人、最終形態」


 轟音と共に揺れる車体が乗り心地の悪さを物語っている。

背を向ける客席の向こう側に見える扉が遥か彼方にあるように感じる。

この汽車が何両編成だったかとかは忘れてしまったが、今はただ先頭車両を目指す他に道はない。

「佐々木。」

その名前をゆっくりと叫ぶとその扉へ向かって足を進める。

真ん中くらいまで歩いただろうか。

何者かが私の腕を掴んだ。

驚いてそちらに見をやると幼い少年が口から血を流して私に縋っている。

声が上手く出せないのか唸るように何かをしきりに訴えている。

口の動きを見るに助けてと言ってるのだろう。

私がその手を振り払うと少年は勢い余って席から床へと落ちてしまう。

苦しそうにゆっくりと体を起こすとせき込んだ。

何度も何度もせき込んでいる。

次第に血を混じらせると喉を掻きむしり始めた。

青虫を混じらせて血を吐く少年の後頭部に1発銃弾を撃ち込むと彼は動かなくなった。

その死体を蹴り飛ばすと先を急ぐ、まだこの客席のどこかに何かがいるんじゃないかと不安になるが今はゆっくりと進めるほど悠長にすることはできなかった。

足早に、足早に扉を目指す。

最後尾の車両から次の車両へと進む。

扉の向こう側は先ほどの車両とは打って変わった真っ白な客席も窓もなく、ただ真っ白な車両だった。

轟音と揺れる車体がここが汽車の中であるのだと教えてくれる他にここがそれの中だと示すものは何もなかった。

最奥部に設けられた唯一の扉が先に進むことを促してくる。

そして、この白さの原因が壁中に作られた繭なのだということにも気づかされる。

佐々木の言っていた、私の青虫は蝶にはなれないという言葉を思い出す。

「いっちょ前に繭にはなれるのかゴミムシが。」

私は壁を思い切り蹴りつけた。

どろりと粘性の液体が靴底について気持ちの悪さを覚える。

舌打ちをし、歩みを進めようとするとき天井からパキパキと何かが剥がれ落ちるような音がするのがわかった。

私がそれを見上げた時どろりと音がして腹を裂かれ中に子供の生首を入れられた女がぶら下がる。

首を吊っているのか宙に浮いたままのそれは無数の芋虫に這いずられていた。

ブツッとスピーカーが入る音がすると佐々木の声が車内に響く。

「私はお前の中で見ていたぞ。

堕ちた蠅の女神を前にしてどんな気分だ。

二重人格のクソ野郎。」

笑い声と共に聞こえるそれは私の感情を逆なでしてくる。

「それがどうした。」

私は溢れ出るそれを抑え込むと腹の中の少年の頭に銃弾を二、三発撃ち込んでやった。

そして心底どうでもいいという表情で扉の前まで進む。

スピーカーから舌打ちが聞こえ電源が落とされた。

少し笑ってやると扉を開けて次の車両へと進む。

今度は普通の車両であってくれと祈りながら進む。

願いが通じたのか、そうでないのかはわからないが扉の向こうには普通の車両があった。

通路に真っすぐと並ぶ少年たちを除いては。

彼らは全部で五人ほどで皆一様に口から血を流している。

そんな彼らは虚ろな目でただ私を見つめていた。

邪魔だなと思う。

どかそうと腹に蹴りを入れるがその身は腐りきっているのか気持ちの悪い音を立てて抉れただけであった。

「助けて。」

今度は言葉として聞こえるように少年たちが口々に声にする。

何度も唱えられるそれはとてもうるさく耳障りだった。

「黙れ。」

そう言って喉を殴るとやはり身は抉れ拳に纏わりつくだけだった。

さらに、最悪なことにその身の中には芋虫が住んでいいたのか拳に何匹か張り付いている。

小さな悲鳴を上げて振り払うと窓に体液をまき散らしながら飛び散った。

あまりにも気持ちが悪いので客席のほうを飛び越えて次の車両までの道を進もうとすると彼らは縋るように私についてくる。

ああ、面倒だ。

仕方がないと腹に力を入れると先頭の少年の足を抉り何度も踏みつけぐちゃぐちゃにした。

中に相当な数の芋虫が入っていたのか散らばったそれらの中にはいまだに動くものもいる。

まだ後四体もいるのかと思うと骨が折れそうだった。

急がなければと私は何度も蹴りつけ踏みつけ通ることのできるようにぐちゃぐちゃにする。

ほとんどミンチのように抉れて潰れても彼らは助けてと懇願してきた。

佐々木に殺されてしまった時点でほとんど永遠に近い苦しみを味わうということなのだろうか。

「黙ってろ。

気持ちが悪い。」

扉の前で靴を床にこすりつけ底についた肉片を拭った。

まだ何か違和感を底に感じるが今は贅沢は言っていられない。

扉を開け次の車両へと移る。

そこでこちらを向きながら立っていたのは、柏木 蘭子であった。

「なぜ、君がここに。」

私は予期しない事態に思考が停止しそうになる。

「貴船 貴子、助けて。」

彼女はそう呟くとするすると患者衣を脱ぎ捨てた。

前身に這いずる青虫を晒しながら。

あれほどに気丈に振舞っていた蘭子がこんな瞳で私を見つめることになるとは思いもしなかった。

だが、その瞳には少しばかりの憎悪もみてとれる。

「お前が佐々木を殺すからこんなことになったんだ。」

「それは、どういう。」

私は言葉に詰まり、どもってしまう。

「君のせいで皆、佐々木に。」

そう言うと、彼女は私を指さした。

「自分は大丈夫だとでも思っているの?」

体中の皮膚に違和感を覚えた。

何かが這っている。

そんな感覚を覚える。

体が動かない。

頬にもそれを感じ辛うじて目線を動かしそれを見る。

なんとか視界の端に見えるものはあの青虫であった。

呼吸が荒くなるのが分かる。

蘭子がゆっくりと私に近づいてくる。

何度も体に力を籠めようとするが全く動かない。

何がどうなっているのか全くわからない。

汽車の轟音に混じって私を呼ぶ声が聞こえ始める頃には、もうすぐそこまで蘭子が迫っていた。

誰かが私を呼んでいる。

一体誰が、その答えは車窓の反射の中にあった。

私を呼んでいるのは私。

何をしているんだと、お前に何が見えているんだと反射の中の私は叫んでいる。

彼女には、この蘭子や青虫が見えていないというのだろうか。

蘭子の手が私の首に伸びる。

首を這っていた芋虫を潰しながらそれは私を締め上げ始める。

苦しさを覚える中で反射の中の私が苦しんでいないことを確認する。

「悪い。」

叫び声を一つ上げると指先に力を入れ1発銃弾を放った。

床に向かって放たれたそれは音を立てて私の足を抉った。

「離せ。」

そう大声で言い放つと蘭子の体を押し倒した。

息が荒い。

何度も浅く長い呼吸を繰り返した。

車窓に目をやると反射する私を見つめた。

青虫に這われ蘭子に縋られているそれにもう1度謝る。

彼女は私を一瞥すると縋る蘭子の頭を撫でていた。

そして私は窓の外の変化にようやく気付くこととなる。

反射する私の向こう側そこには星の降る夜も燃え滾る炎もなく夜の闇と地上には汚い川を中心に栄えるようにできた街並み、恐らくは現実の世界が広がっていた。

窓に近寄ると、それを見下ろした。

この汽車は空を飛んでいるようで街の細部までは見えないが、大きな通路では人が何かを嘔吐しているような様が見える。

間に合わなかったということだろうか。

私は崩れ落ちるように客席に座った。

反射の中の通路では肉の避ける音やうめき声が響いている。

何が起こっているのかはもう想像がついた。

指先から垂れる蛆も既に見慣れた光景であった。

「ありがとう。」

聞きなれない言葉がうめき声を通して聞こえるまでは全て知っている光景であった。

その声を視線で辿ると反射する車内の中だけで蘭子が笑顔で心臓を噛み砕く、そんな初めての世界がそこにはあった。

まだ全てが終わったわけではない。

そう思うと、少しだけ立ち上がる気力が湧き上がる。

まだ、大丈夫。

ほんの少し人が死んだだけなんだと自分に言い聞かせ通路を通り扉へとふらふらと足を運ぶ。

それを開ける前に後ろを振り返るとやはり、そこには何もなかった。

血肉も蛆も、蘭子の姿もそこにはなかった。

ただ車内がそこにはあった。

乾いた笑いがこみ上げる。

深いため息をついて前へと向き直った。

扉に設けられた硝子越しに向こうの車両が先頭車両がよく見えた。

その奥には人が1人はいるほどの白い繭があり少し割れた場所から人の色白い指が伸び始めていた。