「白屍病、逃走、捜索」
私が飛び起きると辺りは暗くなっていた。
廃墟の中で眠り込んでしまっていたようで埃っぽい畳が肌に不快感を与える。
そして、その感触から自分が全裸だと気づかされた。
暗闇に目が慣れ始めると辺りに自分の衣服や所持品が散らばっているのが薄く見える。
「夢ではなかったのか。」
そんな不安が差し込み手のひらにできた傷の痛みがそれを確信に変えた。
衣服を拾い上げて着なおすと少し湿っているような気がして気分が悪い。
押し入れの死体を思い出し恐る恐る、ふすまを開け中を確認するがそこに死体は1つもなかった。
とにかくここを出ようと体を動かす。
すりガラスの向こうが暗闇で不安を覚える。
ゆっくりと開け放つと彼岸花はなく安心した。
1度、職場に帰ろう。
携帯を開き時間を確認すると二十時を示していた。
数時間眠り込んでいたようだった。
いや本当に眠り込んでいたのだろうか。
私は今までどこにいたのだろうか。
何度か頭の中で過去を反芻し考えるが答えは出ない。
吐き気だけが次々に浮かび上がった。
もう1度携帯を開くと日付や時間を確認する。
少しだけ安堵の感情を得ることができた。
落ち着くと1件の着信が入っていることに気が付き折り返す。
聞きなれた上司の声がして、さらに安心感を覚え涙がこみ上げそうになる。
「どうしましたか。」
私は声が震えそうになるのを抑えて問いかけた。
「佐々木 真那津がいない。」
衝撃の返答に抑えていた震えがまたしても甦り始める。
「すぐに戻ります。」
私はそう言うと職場への帰路を急いだ。
湿った夜風が私を嘲笑う。
苛立ちと焦りが頭の中でスクランブルになって吐き気を導き出す。
何が起こって何をしたのか、それを整理することすら許されない。
「くそ。」
呟かざるを得なかった。
職場に戻ると皆慌ただしく動き回っている。
それもそうだ仮にも連続殺人犯がいなくなったのだ。
これは過失では済まされない大問題だった。
すぐに捜索隊を組んで動くべきだと主張するが、世間には隠蔽する方向で話は進んでいるようで、大規模な捜索はできないと伝えられた。
私の職権では歯向かうこともできずに飲み込むしかない。
数少なで編成された捜索隊に私が入ることは叶わず引き続きあの日関連全体の調査を担当することとなった。
何かがおかしい。
皆どうかしている。
そんなことを考えるが、上の命令ではどうすることもできず私はあの廃墟で見た夢について考えを巡らせる。
というのも芋虫を吐き出した佐々木と蝶を流したあの女に少しばかりの共通点を感じていたからだ。
不意にポケットの中に違和感を感じて手を突っ込むと紙切れの肌触りを覚えた。
あの廃墟で1枚の絵を拾い上げたのを思い出す。
遥か昔のことのように感じて嫌な呼吸が零れた。
紙切れに書かれた名前、柏木 凛檎の名前を調べることにする。
いくつかの病院に連絡して白屍病の患者について取り寄せた。
さほど大きくはない町の上に、あれだけ珍しい病気の患者はすぐに検討がつく。
確かに柏木 凛檎という女が白屍病の診断を受けている。
だが、それは五年以上も前のことで彼女は三年前に捜索願が出されて以降、行方不明になっていた。
それどころか彼女の家族もまた1人の姉を残して行方不明になっている。
彼女の姉、柏木 爛子は現在近くの総合病院の精神科で保護されいるようで私は彼女に接触を試みることにした。
「貴船 貴子Ⅱ」
数日が過ぎ、佐々木は見つからぬまま私は爛子との面会の日となった。
その日、職場に着くと中はいつも以上に緊迫した雰囲気で皆どこかピリついている。
自分の机に向かう途中で上司に声を掛けられ、1つのケースを手渡された。
「これは?」
問いかけると彼は俯き加減で答えた。
曰く、佐々木捜索班の内二名が臓器を嘔吐して死亡、事態を重く見た上層部からこの案件関連に関わる職員全員が武装することを許可されたそうだ。
ケースの中には拳銃といくつかの装備が入っていた。
「最悪の場合、佐々木の射殺も厭わない。」
最後にそう告げられ、そうでもしないと佐々木の捜索を行う士気が下がる一方なのだろうと考えた。
彼女に殺されたであろう人間の死に様を見ればそれもそうかと納得する。
「君も顔を見られてる、気を付けてくれ。」
そう言い残し去っていく上司を見送ると少しばかりの恐怖と正義感が体内で蠢きあった。
これから柏木 蘭子に会いに行かなければならないという事実が億劫に感じ自らの頬を叩いて鼓舞する。
珈琲を1杯飲み干すと、勢いよく立ち上がった。
「怪物、悪魔、異界」
白く巨大な建造物が眼前に広がる。
この町でも一際大きなこの総合病院は評判も良く、何か不穏な噂を聞くわけでもない。
ここで保護されている柏木 蘭子が本当に何か重要な情報を知っているかどうかも確かではない。
そんなことが微かに感じるほど私の胸は高鳴っていた。
病院の入口へと足を近づける度に異界への入り口に片足を突っ込むような感覚に襲われる。
怪物のような女の姉かもしれない、とてつもない悪魔のような人間を想像してしまう。
患者の容体も考慮した結果、面会時間は十五分で仮に発作でも起こされたものなら即中止の可能性もあるそうだ。
病院側との事前の打ち合わせを考えるとさほど、到底化け物のような人間だとは思えないが薄いピンクの瞳がちらついてしまう。
上手くいってくれ。
私は信じもしない神に願いを唱えた。
昼の空に星が瞬く。
受付には話が通っているようで柏木 蘭子の病室へと案内される。
入室の前に私はどうしてか箱状のものを持っていないか入念にチェックされた。
なんでも彼女はティッシュボックスはおろか小さなお菓子の箱でさえも見ただけで発狂し暴れまわるのだそうだ。
その怯え方は尋常ではなく何度か理由を聞いたこともあるそうだが妹が来ると譫言のように繰り返すだけなのだという。
その不可思議な症状を聞き、あの少年や空に浮かぶ無数の箱を思い出す。
あれが夢ではなかったという狂気が現実味を帯び始めた。
蘭子の病室に近づくにつれて、あの光景がフラッシュバックする。
緊張しているのが看護師にバレたのか彼女は1言、私に言う。
「最近は人が変わったように元気なんですよ。」
「そうですか。」
それが私を紛らわせることはなかった。
目の前には白い扉があり手を伸ばすと心臓が張り裂けそうなほど鼓動する。
この向こうには、また彼岸花の景色が広がっているのではないかと考えてしまう。
病室の扉を開け、この不安は打ち砕かれることになるまでは。
彼女は点滴を刺され白いベッドに横たわり病人らしい格好をしているものの生きる気力に満ち溢れ、凛とした姿で入口に立つ私をしっかりと見据えていた。
そこに凛檎の面影は一切ない。
切れ目がちな瞳がしっかりとした目力を持っていて艶やかな黒い髪が健康的にさえ思わせる。
私達は軽く自己紹介を行い本題に入った。
正直なところ、私は柏木 凛檎の名前を彼女の前で口にするのが正解かどうかわからなかった。
しかし、そんな私の不安を見透かすかのように先にその名前を口にしたのは彼女の方だった。
「妹の凛檎のことでここに来たんですよね。」
そう切り出され若干たじろいでしまう。
彼女は私に妹について震え交じりの声で優しく説明してくれた。
曰く、凛檎という女は悪魔であると彼女の家族、両親が行方不明になった原因も凛檎であり彼女自身も凛檎によって命を狙われているのだという。
なんとも信じがたいことであった。
私自身あの彼岸花の世界を経験していなければ彼女の話を信じることは難しかったと思う。
彼女はさらに付け加えた。
もしあなたがあの悪魔を葬り去ってくれるのならば居場所を教えてもかまわないと。
行方不明になったはずの凛檎の居場所を実の姉である蘭子が知っている。
その事実は私の中で大きな混乱を生む。
確かに私はここに来ることで何か大きな成果が得られることを強く望んでいた。
だが、こうも話がうまくいったのではより強い不安に晒されるというものだった。
やはり、何かがおかしい。
そう疑ってしまうほどに順調であった。
この女もまた凛檎と同じように怪物的な存在なのではないかと感じる。
だが今は話に乗る他に状況を進める手はない。
「凛檎はどこにいますか?」
彼女の目を見つめた。
「あそこに。」
彼女が指さしたのは窓から見える小高い丘に建つ屋敷であった。
中世ヨーロッパを思わせるようなその屋敷はどこかゴシックホラーのようにも感じる。
蘭子の嘘である可能性がないわけではない。
しかし、ここであそこに行かないという選択は私にはなかった。
何より彼女の涙に濡れるその瞳が私にその選択肢を与えない。
少しの沈黙が続いて十五分が経ちここからの退室を余儀なくされる。
私はその足であの屋敷へと向かうこととした。
去り際に彼女が言った、箱には近づかないで、という言葉をしっかりと心に焼きつける。
私の頭はおかしくなっているのかもしれない。
いや麻痺してしまっているというのが正解だろうか。
何にせよ、まともな思考回路は持ち合わせていないことは確かであった。
あの小高い丘が私を見て笑っているように見える。
冷たい雨が降り始めた。
黒くはない、ただ冷たい雨が。
登ってみると思いの外、高い丘は私の体力を少しずつ奪い去っていく。
さらに深い泥沼へと誘う。
屋敷の入り口が私の前に立ちはだかり見下ろす。
こここそが異界への入り口なのだと告げるようであった。
拳銃を抜くと、ドアに手をかけた。
この向こうには彼岸花が広がっているか。
それとももっとひどい世界が広がっているか。
鍵はかかっておらず、すんなりと開く。
どうしてだか、ここが簡単に開くことを知っていたような気もする。
呼ばれているのか、そんなことを考えて深呼吸をした。
この状況にある種の既視感さえ感じている。
扉の向こうには長い廊下が姿を現した。
長いというのは不正確かもしれない日当たりが悪いのか外で雨が降っているからか薄暗い屋敷の中では廊下の奥は見えないのだ。
その暗闇に佐々木が柏木が立っているような気がして拳銃を構えてしまう。
「お姉さん。」
聞き覚えのある声が少し向こう側、右手の扉の中から聞こえる。
「こんな所まで来てしまったんだね。
ここは落ちた高き館、あなたは迷い込んだ意思なき蠅の内の1つでしかない。」
木の軋む音が鳴り扉が重く開き始める。
そこから顔を出すのは、やはり柏木 凛檎であった。
「お姉ちゃんに聞いたの?
お姉ちゃんは元気かな?
お姉ちゃんはどこにいるのかな?
どうして僕はあのお姉ちゃんを殺せないの?」
暗い闇の中に白く細い肌が、濁った薄いピンクの瞳が浮かび上がる。
彼女は私が向ける銃口に怯えない。
それどころか背中を向けて廊下を奥へと歩き始めた。
未だに声が出せない私とは裏腹に彼女は饒舌に語りだす。
「皆でご飯を食べていた時、突然雨が降り始めたの。
ここは日当たりが悪いから天気が悪くなるとすぐに暗闇になる。
薄暗い部屋の中で窓の外を見た僕は黒い雨を見て、それに見惚れてしまった。
ただ、じっと見つめていた。
だけど、雨はすぐに止んでしまうの。
あれはなんだったんだろう、そんなことを考える間もなく不思議なことを体験したよ。
一緒に食事を囲んでいた家族がお姉ちゃんを残していなくなったんだ。
僕が父さんに駆け寄って母さんに抱きしめられた後だからすごく寂しかったのを覚えている。
お姉ちゃんは走って部屋を出て行ってしまうんだ。
どこに行っちゃったのとかそんなことを考えていると部屋が緑色に染まって、星が降った。
そして僕は鼻血と一緒に蝶を流したの。
こんな風に。」
彼女はそう言って振り返る。
鼻血と共に蝶を流しながら。
暗闇に目が慣れ私は気づく壁や地べたに無数にとまる蝶の姿に。
麝香の匂いが立ち込め始めた。
「いつのまにか本当のお姉ちゃんは殺されて僕は独りぼっちになっちゃった。
家族を探して家の中を探し回ったよ。
だけど見つからない。
だから僕は箱の中に入ったんだ。
暗くて、暖かい箱の中へ。
どのくらいそこにいたかはおぼえていないけど外に出て1番最初にしたのはお父さんとお母さんの部屋のクローゼットを開けること。
やっぱり中には二人が餓死する姿があったの。
安心したよ。
勝手にいなくなったんじゃなくて僕がちゃんとやったんだってわかったから。
お姉さんもそうありたいよね?」
彼女は暗闇の奥へと走って行くそれを追いかけようと私が体を動かしたとき両脇に並ぶドアが勢いよく開いて大小様々な箱が転がり出た。
それに驚きジャコウアゲハが一斉に飛び立つ。
何匹かは潰されていたと思う。
全ての箱は完全に密封されておらず、どこか1面が空いて籠のようになっている。
その全てから彼女がこちらを見ているような気がして足がすくんでしまう。
「こっちにおいでよ。」
廊下の奥から彼女の声が響いて蝶の羽音に消えた。
深淵とそこを飛び回る黒い蝶が私の視界をめちゃくちゃにする。
不気味に艶めく暗闇の箱とそのどこかから覗いているであろう凛檎が私の恐怖心を絶えず揺さぶり続けた。
目の前に転がる箱の群れを前にどうすることもできずにいると耳元で囁く声がする。
「目を閉じて。」
佐々木のものでも、柏木のものでもない声が私に囁いた。
「お前は誰だ。」
私は精一杯の声で凄むが震えてしまう。
「君の中にあるデカラビアが目覚めようとしている。
見えていないことが残念だ。
屋敷の外では黒い雨が降り、今に緑色の空が広がるというのに。
十一年前に君が2人を自殺に追い込み1人を殺したことを忘れてはいけない。
貴船 貴子、君は狡猾な殺人鬼なんだ。」
何か消し去ったフィルムを無理やり見せられているような気分になり思はず目を閉じてしまう。
深く閉じたその瞼の向こう側には星が降る夜があった。
今日が一九九八年六月八日だと、幻覚だと確信しながらも思い出す。
瞼の向こう側にある星の降る夜空が私を私ではなくさせようとしている。
私はどこかで私になっている、そんな考えが頭をよぎった。
星を見つめる私の隣に私が腰かけた。
「思い出す必要はない。」
そう語りかけてくる。
「今は、私になるといい、それが私が今を生きる方法なのだから。」
そう言うと私は私にキスをした。
私の味はどこか血の生臭さと甘い果実のような味がした。
「おはよう。
遅咲きのデカラビア。」
最後にそんな言葉が聞こえたように思う。
二度目のデカラビアが終わり、目を開けた。
転がる箱を蹴散らし私は前へと進む。
「そうだ、私は殺人鬼だ。
お前のような病人を見ていると虫唾が走る。
健全でない、多数でない、優れていない者を虐げてなんの罪になる。
凛檎、お前はなるべくして白屍病になったんだ。
生きるに値しないくせに偉そうに語りやがって同じ空気を吸っているだけで気分が悪い。」
箱を1つ踏み潰すと箱から血が滲み凛檎の叫び声が聞こえたような気がした。
奥へ奥へと足を進める。
暗闇のおかげで長く見えていた廊下も実際に歩けばさほど長くはなく、すぐに最奥の壁に背中を預ける柏木 凛檎が姿を現した。
所々に出血の跡がある彼女はジャコウアゲハに囲まれ笑っている。
銃口を向けられて頭でもおかしくなったのだろうか。
「ようこそ、クソガキ。」
私は彼女を睨みつけ、引き金に指を置いた。
少しずつ距離を詰める。
「来るな。」
そう叫ぶ彼女の声と同時に皮と骨だけの子供が私の眼前に落ちてくる。
目は落ちくぼみ頬はこけているがあの時、彼岸花の世界で見た少年のように感じた。
「助けて。」
そう口を動かしているように見える彼は私に向かってその汚く汚れた爪のない手を伸ばす。
「触るな。」
私は彼の手を叩き落とすと腹部に蹴りを見舞った。
腹を抱え苦しむ彼を見ていると昔の自分が戻ってきたようで嬉しく感じた。
大人になるにつれて隠しなかったことにしていた感情が蘇る。
他人を虐げ、見下す喜びを肌で感じる。
だが少年が苦しむ様子は腹部を蹴られた痛みだけでは説明がつかないほどに壮絶にも感じた。
少年の最も鈍い叫び声がした時、彼の腹を突き破って虫の足に似た何かが生えた。
次いで目は腫れあがり口からは絶えず粘性の液体を吐き出し続けている。
最早人間ではないそれを見ているとたまらず笑みが零れた。
自分は紛うことなき人間で目の前に転がる少年だったものは今や虫けらかそれ以下の化け物になり果てている。
液体を吐く口からは遂に耐えきれなくなったのか心臓のようなものが飛び出た。
「噛み潰して死ねクソムシが。」
そう吐き捨てると彼は自分で自らの心臓を噛み潰し、動かなくなった。
死んだ方が楽なのだ、価値の低い命達は価値あるものがその価値をより高めるための道具でしかないのだから所詮は使い捨てなのだから。
堪えきれずに声を上げて笑うと凛檎に向き直った。
「次はお前だ。」
彼女に手を伸ばす。
しかし私が完全に手を伸ばしきる前に異変は起こった。
指先がひどく痛む。
それは耐えきれずに腕全体が震えるほどであった。
何が起こったのかわからないでいると爪がめくれ上がり始めた。
鋭い痛みが指先に流れる。
外れた爪と皮膚の間からぽたりぽたりと何かが零れ落ちた。
地面に落ち、うにうにと蠢くそれ蛆虫で私は指先、爪の間から蛆を幾匹も産み落とす。
それはひどく鋭い痛みを伴う。
思っていたより、早い。
「お姉さん、あんなに偉そうにして、まだ生まれたばかりなんだ。」
凛檎の声が離れて行く。
それを理解する前にとにかく凛檎を殺さなければと私は涙ぐむ目で彼女を睨もうとする。
だが、そこに彼女の姿はない。
どこに行ったのかと辺りを見渡すと少し外れた場所に開け放たれた扉があることに気が付いた。
位置的には裏庭に通じる扉だろう。
蛆と血に塗れた手で銃を握ると体を震わせながら扉を跨ぐ。
既視感のある光景がそこには広がっている。
彼岸花が咲き乱れるあの光景だった。
ただ今回は地平線まで続くそれではない。
小高い丘に建つこの屋敷の死角になる部分、そこを覆いつくすように彼岸花が咲いているようだった。
空にはジャコウアゲハが飛び回り騒がしい。
その最も高くなった部分で柏木 凛檎はこちらを見下ろしていた。
彼女の背後に違和感を揺らしながら。
その違和感は少しずつ形を帯び始める。
真っ赤な夕日がそれを照らし、凛檎の肌も相まって不気味さを際立たせる。
最早彼岸花が季節外れだとかそんなことはどうでもよかった。
「やっぱりお姉さんもこっち側だったんだね。」
彼女の声が丘に響き渡る。
もう指先に痛みはなく一切の震えもない。
私はいとも簡単に銃口を彼女に突き付けられた。
正確にはその背後に向けることができた。
「佐々木 真那津、そこで何をしてる。」
私の視線と声に凛檎が振り向こうとした時、拘束具に縛られた腕を器用に回し、佐々木は凛檎の腰を掴んだ。
呆気にとられる凛檎にキスをすると佐々木は彼女を強く突き飛ばす。
バランスを崩し倒れ込む彼女に彼岸花が折れる音が纏わりつく。
頭を打ったのかゆっくりと状態を起こそうとする彼女は上半身を上げてその動きを止めた。
瞬間、彼女は何かを嘔吐した。
更にそれは止まることなく何度も吐き出し続ける。
遠目にそれが彼女の臓器であると察することができた。
静かに赤い丘に響くその声は淫靡な嬌声のようにも感じる。
佐々木 真那津、お前も触れるだけで人を殺すことが出来るのか。
いや、デカラビアとはそういうものなのか。
今までの光景を順番に並べて行くとその考えになるのも無理はない。
目の前の凛檎が更にそれを物語っている。
凛檎は吐き出すそれらを手ですくい口の中に戻そうとしては次を吐き出している。
「僕の、返して。」
そんな声が時折聞こえ始めた。
その光景が数分続くとどさりと倒れたきり動かなくなった。
それを見届けると佐々木は私に視線を戻す。
傷を隠すように巻かれた黒い布が眼帯のように彼女の顔の半分を覆っている。
「君もデカラビアを求めるのか?」
佐々木の低く冷たい声が流れ始める。
彼女の声を無視して銃口と共に睨み続ける。
「悲しいよな、悲しいんだ。
私の青虫は蝶にはなれないんだ。
だから、こうして蝶になった気分で空を飛ぶのかもしれない。
まるで運命みたいだよ。」
その声を合図とするかのように不規則に飛んでいた蝶達が彼女の周りを円を描くように飛び回り始めた。
丘を覆うほどのその群れはすぐに私の銃口を迷わせる。
ジャコウアゲハの黒と赤の体には何匹かの青虫が蠢いていた。
まるで寄生でもしているかのように蝶の体に張り付いている。
ゆっくりと佐々木を中心とした塊が私に近づき距離を詰める。
蝶が視界を埋め時折その隙間に見える佐々木の冷たい表情が私に恐怖を与えた。
上手く、狙いを定めることができない。
デカラビが遠くの空で私を笑っているように感じて気分が悪い。
昔、私が自殺に追い込んだあの女を思い出すようで唇を噛む力が強まった。
かつて私が学生であった頃のあの女を思い出す。
自分よりも立場の弱い者を虐げるのが好きで好きでたまらなかった頃、1人の女をターゲットに私は日々を過ごしていた。
女は動きが鈍く、何をするにも1つテンポの遅れる鈍間な女だった。
その癖プライドは高いのかどれだけいじめても必ず私の前に姿をあらわす気の強い女で嫌いで嫌いでしょうがなかったのをおぼえている。
そんな女がある日、私を屋上に呼び出す。
屋上に行くと女が柵の向こうに立っていて私を柵を超えることのできない臆病者だなんだと囃し立てた。
彼女にその時、どこまでの意思があったのかは知らないがあの時の私は愚かにも柵を超えて女と向き合った。
これがなんだと挑発して中に戻ろうとした時、女がゆっくりと私に近づいて来る。
殺されると、そう思った。
あの時の女の目が常人のそれでなかったことがそうさせたのか近づく彼女を突き飛ばし殺す。
それまでに人を自殺に追いやったことはあったものの自らの手で殺すというのは初めてだった。
その行為は思いの外なんともなかった。
地面に落ち、体がひしゃげるその瞬間まで声も上げずに私を睨み続けるあの目が快感を覚えさせる感覚さえあった。
すぐに友人らに涙ながらに嘘を交えて語ると皆が私の心や体を心配する。
その後も学校側の隠蔽体質や私の立ち回りもあって事故ということで処理され、私も停学処分ですんだ。
そんな昔のことが脳裏によぎった。
陣実逃避だろうか。
今、目の前にいるのは鈍重なあの女ではなく悍ましい殺人鬼であることから目を逸らそうとしたのだろうか。
いや、たかが殺人鬼だと気づいたのだろう。
凛檎に青虫を張り付けていあたのだろう陰湿で狡猾な殺人鬼。
「佐々木、高き館の主は蝶でも青虫でもない蠅の王だ。」
この声が佐々木に聞こえのかどうかはわからないがそんなことはどうでもいい。
今は私の蠅たちが佐々木の脳天までの道筋をこじ開けたことに意味があった。
青虫の蠢く蝶は羽を頭を蠅に這われ次々と落ち、佐々木を露わにしていった。
空を蠅と蝶が飛び回り黒い雨のようにノイズをかける。
ただ虫達は不規則で完全には視界が開けない。
そんな時1つの餓死体が空から降り、佐々木の前の虫達を押し潰したことで一瞬、彼女の前が完全に露わになった。
「クソガキが。」
片方の目で凛檎の死体を睨みつける顔は滑稽で仕方がなかった。
そして私の放った弾丸が佐々木の脳を貫いた。
最後の最後に彼女は何かを呟いたようにも見えたが聞き取ることはできない。
彼女が倒れ込むのを確認すると、どっと疲れが溢れたのか私もその場に倒れ込んだ。
首から上を動かし凛檎の死体を確認しようとするが、彼岸花がそれを阻む。
きっと死んでいるだろう。
そう思う。
ああ、眠ってしまいそうだ。
瞼が重く瞳にのしかかる。
私は重い体を起こそうと努力する。
佐々木の死体が視界に入った。
もう動くことはない連続殺人鬼がそこで死体となって転がっている。
安堵が私を更に眠りの世界に誘い込む。
まだ、やるべきことが残っているのに。
消すべき炎は後2つ。