「デカラビア 終」


それは個々の精神世界の戦い。


飲み込んだものが勝ち、蝋燭の火を消す。


蝋燭は五本。


最後の灯こそが焔となる。


終の一本まで火を消しあう。


   「復讐、後悔、懺悔」


 遥か遠くで経が唱えられる音が聞こえる。

菊の花束に埋もれて信貴が笑っているのが見えた。

だが、黒い縁が邪魔で顔しか見えない。

「彼女は殺されたんだ。

君は二度も大切な人間をあの日を経験した者に。」

誰かが俺に囁く。

信貴が殺された。

俺があの時、あの女に会おうとしなければ。

そんな後悔が胸を強く締め付けた。

「今日はもう帰りましょう。」

信貴の言葉が脳内に響く。

そんな時、俺の背中を強く叩くものがいた。

振り返ると信貴がそこに立っていた。

幻覚だとすぐにわかる。

だが、彼女は言った。

「後悔して泣くくらいなら、犯人捕まえて笑っていた方があなたらしいです。」

俺は泣いていたらしい。

これが最後の涙だと誓いながら、俺は泣いた。

これ以上の犠牲者を出さぬようにこれ以上の悲しみを生まぬように、いや自己満足だろう。

罪滅ぼしのようなことをして気を晴らしたいだけなんだと思う。

遺影に浮かぶ信貴の瞳が俺を見透かすように見つめる。

彼女らしい、そう思った。

あの日がなんであるのか経験した者が一体どうやって人を殺しているのか、知らなければならないことはまだ多くあった。

捕まえなければならない人間がいる。

俺を突き動かす感情はどうしてか、ただそれだけであった。

あの日を経験し犯罪歴を持つ者が未だに人を殺し続けている。

この悪い夢をすぐにでも覚まさせなければならない。

俺の中の正義感が大きく膨らんでいった。

すぐにでも俺は動き出す。

まずは最も身近に存在するあの日に触れてみようと俺は考えた。

佐々木 真那津、俺は彼女に接触することを禁じられているがイチかバチか全身全霊でもってして上層部にかけあう。

信貴の死もあり、俺の直談判の甲斐もあってか佐々木とのほんの数分だけ接触を許された。

面会室に入ると佐々木に自己紹介をする。

死んだ魚のようなつり目が俺をじっとりと見つめる。

「加賀美 徹。

やっと来てくれた。

ありがとう。」

「ありがとう……?」

思いもよらぬ言葉にオウム返しのような反応になる。

「さぁ、私は礼を言ったんだ。

次は君の番、感謝したまえ。」

彼女は表情を変えずにそう言い放った。

溢れ出る怒りが俺を狂わせそうになる。

深く息を吸って冷静になろうと試みた。

「あの日について詳しく話を聞きたいんだ。

黒い雨、緑の空、星が降る。

他に何か、なんでもいい見たことを教えてくれないか。」

佐々木は無言だった。

その表情は完全に興味を失ったようで、時には舌打ちすら響いた。

俺は何度か質問を繰り返す。

彼女は目を閉じ、居眠りでも始めそうな勢いであった。

「黙っていればなんとかなるとでも思っているのか。」

俺は声を荒げ始めていた。

握った拳がテーブルを叩く。

「知らない。」

佐々木の声はとても冷たく人を見下すそれだった。

彼女は大きくため息をつくと俺に向き直る。

「価値無き命が私と言う運命に巻き込まれて華々しく散ったんだ。

衝動を与えてくれてありがとう、運命に巻き込んでくれてありがとう。

感謝とは相互関係だよ。

お前のクソガキはとんだ徒花だったよ、まったく。」

佐々木は初めて感情を見せ、まくし立てた。

それは加害者とは到底思えない怒りの感情でなんとも自分勝手な、常人には理解しえないそれだった。

怒りが理性を超えてしまいそうになる。

俺は落ち着こうと息を整え、ポケットから小瓶を取り出した。

「調子に乗るなよ。」

俺は小瓶の蓋を開けると拘束され動けない佐々木の顔にばしゃりと液体をかけた。

右目から胸元にかけて液体は悪臭を放ちながら付着した。

彼女は苦しそうな声をあげて、のたうち回った。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、クソカスが!」

拘束具が邪魔をしてうまく暴れられないでいる。

「さっさと答えろ。」

俺もひどく冷たい声だった。

警備員が何事かと俺に詰め寄ろうとしている。

顔の右半分と胸のあたりをひどく溶かしながら佐々木は震えている。

俺はもう一度硫酸をかけようと腕を振り上げた。

しかし、それは警備員によって抑えられてしまう。

部屋から連れ出されそうになって暴れていると佐々木の笑い声が響いた。

「ははははは。

六人の子供だ。

六人の子供が私を取り囲んでいたんだ。

私が過去に殺した六人の子供が。」

佐々木の落ち着いた声に警備員もおとなしくなった。

「詳しく話してもらおうか。」

一息吐いて佐々木を睨みつけた。

「私を取り囲むように六人の子供がいた。

さほど広くない部屋の中だ。

ひどい圧迫感を感じたよ。

子供たちが一斉に血を吐き始めて、部屋が血で満たされて私は一度どろどろに溶けた。

そして、何か硬い壁を突き破って外に出たんだ。

そこはもう私の部屋ではなかった。

1本のただ、長い廊下だった。

前に進まないといけない。

そんな焦燥感に駆られて真っすぐに進んだよ。

途中で何度も何度も嘔吐した。

吐瀉物には何かの幼虫が紛れ込んでいたかな。

それが気持ち悪くて、また吐き出す。

まるであの時に芋虫を吐き出したのと同じような感覚だ。

廊下の終わりにたどり着くころにはそこら中を虫が這い回っていたよ。

最後に扉を開けるとそこは私の部屋だった。

それが私の六月八日だ。」

それを聞き終えると医療班を呼んで部屋を出た。

去り際に彼女を振り返るとどこか虚空を見つめて彼女は口を開く。

「お前に私の灯は消せない。」

顔を焼かれ、気でも狂ったのかにやついた笑みで彼女はそう呟く。

そんな佐々木を無視して少しばかりの光明が見えたような気を俺は感じていた。

それが正解なのか不正解なのかそれは俺にはまったくわからないが、ただそれに向かって進むことしかできなかった。

それは小さな小さな気づき程度なのかもしれないが。


   「光明、虚ろ、繭」


俺の中で幼虫を吐いた一本の廊下という言葉が気になっていた。

白窓街で見た繭だらけの渡り廊下それが気になって仕方なかった。

あれは確か蜘蛛の卵だったが、芋虫もまた繭を作る。

やはり何かあそこがあの日の起点になっているのではないか。

そんな考えが巡る。

足は自然と白窓街へと向かっていた。

行動の11つが足早になる。

しかし、そこに焦燥感はない。

ただ今すべきことが手に取るようにわかるようだった。

白窓街に着くと橘の部屋を目指す。

異様な渡り廊下の前にはやはりあの虚ろな老人が立っている。

俺はあの正気を保つこともできていないであろう男にまで縋りついていた。

「一九九八年六月八日、橘 葉狐。佐々木 真那津これらのどれか一つにでも心当たりはないか。」

男はやはり虚ろな目をしている。

「橘。」

男はそう呟いた。

「何か知っているのか。」

俺は少しばかりの喜びを覚えつつあった。

「あの女は、ある日ここに来て、四〇二に住み着いて、それから何人かおかしくなって。」

男はまた放心状態になった。

「他には何かないか。」

「知っていますか。

あの女は、蜘蛛を泣くんですよ。」

それっきり男は口を開かなかった。

やはり、もう一度四〇二の中を調べてみる必要がある。

繭の廊下を抜け、四〇二への道を進む。

途中でおかしなことに気が付く。

音がしない。

全くの無音が世界を支配している。

なぜ、俺はこんなことを直感で気づいたのか自分自身にもわからない。

いつから音が無くて、どうして不意に気が付いたのか。

この白窓街という場所は以前から人の気配など感じない不気味な場所だった。

ただ今だけは本当に人が、生命がいないそんな確信がある。

最近ここで人が殺されているのにも関わらず、誰もここにはいなかった。

そんな偽りの過去さえ想起される。

生唾を飲み込んだ。

どこか不可思議な世界に迷い込んでしまった気分だった。

蜘蛛を泣くと言ったあの男さえも、今となってはおそらく存在していないだろう。

俺は自分の手が震えていることに気が付き、拳を握った。

四〇二が見え、俺は身構える。

一応の封鎖がなされた扉に鍵はかかっていない。

俺は息を整え、それを開いた。

中は以前と何ら変わりない殺風景な小さな部屋であった。

少しの調査の後が残るが、物の配置も何も変えられていない。

保管された部屋。

だが、あの大量の水はなく本当に人が死んだとは思えない。

何より橘がここで住んでいたという形跡さえ何1つ感じられなかった。

頭の中は少し混乱し始めている。

ワンルーム、畳敷きの小さな部屋。

気になるものは見当たらない。

湿った空気がじっとりと纏わりついた。

足を動かすたびに畳の軋む音が耳障りで何かをきっかけに橘がどこかから出てくるのではないか。

そんな不安が湧き上がる。

意を決して、橘が飛び降りた窓を開けてみる。

曇り空とそこそこの街並みが見渡せた。

ただ、小さな違和感を感じる。

不自然な何かが俺の周りのどこかに存在している。

辺りをゆっくりと見渡した。

そして窓の縁に置かれた灰皿から煙が立ち込めてくるのが見えて俺は勢いよく後ろを振り返った。

押し入れがかたりと物音をたてたこと以外は何もない。

心臓を化け物が嘗め回しているかのように鼓動が速まる。

しかし心の中に去来したものはそれだけではなかった。

俺は恐怖を覚えながらも、何か1歩進んだような高揚感を得た。

押し入れに手を伸ばす。

薄汚い押し入れに筋肉質な腕が近づいていく。

背後で雨音が聞こえ始める。

首を少し振って外を見た。

そこには黒い雨が降り始めている。

俺は我を忘れて窓に駆け寄った。

あの日を経験した者が共通して語る黒い雨。

神に誓って俺は犯罪など犯したことはない。

ただ確かに目の前にはあの黒い雨が降っている。

真っ白な白窓街が漆黒に染まっていく。

そして、しばらくして緑色の空が現れる。

美しいというにはあまりにも淀んだ、邪悪な緑が空を覆い始める。

「この後は。」

心がこれ以上を拒絶していた。

最後まで見てはいけない。

俺は耐えられない。

そう告げる俺の精神がゆっくりと傾いていくのがわかる。

背後の押し入れがかたかたと鳴っている。

誰かが中から押し入れを開けるような、そんな音が絶えず鳴り響き始める。

次第にそれは深く知ったものの音だと気が付き始めた。

どうしてだか、全く何の気の迷いだいかわからなかったが信貴だと直感する。

押し入れに駆け寄った。

いつの間にか浸み込んだ黒い雨が畳を踏むたびに弾けて飛び散った。

ついに押し入れを勢いよく開けると中から水が流れ、死体のようになった信貴の姿がそこにはあった。

黒くはない、信貴が吐き出した少しの吐瀉物を含んだ真水が押し入れの中から流れている。

「かがみさん。

ほしふるよるにあえましたね。」

信貴は俺の手をその細く、骨と皮だけになった手でそっと掴んだ。

冷たく、救いようのない悪夢のような皮膚が俺の手のひらをゆっくりとなぞった。

鋭利な痛みが俺の前身を駆け巡るのがわかる。

信貴に会えた喜びを全て奪い去るような、刃物が俺を剥がそうとするような切れた皮膚を剥がしてめくるようなそんな痛みが全身で息をする。

そして、本当に少しずつ、皮膚が破けていくのがわかった。

爪を一枚ずつ剥がされるような連続する鋭い音がこの狭い部屋に響き始めて俺は耐えきれずに声を上げる。

正方形に切り取られ、まずは皮膚が破れて剥がれて床に落ちた。

それは何度も繰り返され、俺の足元に俺の欠片が散らばり始める。

皮膚がなくなるとむき出しになった肉が正方形に破れて剥がれた。

手のひらほどの正方形が私の足元に並んでいく。

痛みで硬直した体は叫び声と僅かに藻掻くことしか許さない。

紙を破くような肉を皮を人体から剥ぐ音が鳴り始めた。

痛みに意識が遠のいていく。

右目から瞳孔が破れる時は気が狂いそうになった。

骨の露出する腕で右目を抑えると俺はついに倒れた。

そして俺が最後に見た景色は星がたくさん降る夜空と覗き込むように現れた、もう死体ではない綺麗な笑顔の信貴の姿であった。


 女は話し終えると、息をついて目を閉じた。

恰も自分が加賀美であるかのように語るその女は涙ながらにそう語った。

「それがあなたが経験したあの日ということですか。」

私は彼女に尋ねた。

「はい。

貴船さんは信じてくれますか。」

彼女は少しばかりの涙を浮かべた眼で私を見上げた。

拘束されているというのによく動く。

私は最後の質問を投げかけた。

「あなたは信貴 綾で間違いありませんか?」

「はい、そのとおりです。」

彼女は満面の笑みを浮かべて答えた。



   「箱の王、怪人」


 数日前、ある事件が新聞の一面を飾った。

それは、十二歳程度の少年六名の死体が突如として商店街のど真ん中に出現した事件。

死因は全て餓死。

証言者によれば突然、空から降ってきたなどと言う。

周りに高さのある建物はなく記憶違いか何かかとも思ったが、それを見たという人間は一人ではなくその場にいたほとんどの人間が見たという。

あまりにも不気味で気持ちの悪い事件であるが、もっとも奇妙な点は被害者は皆、面識も行方不明になったとされる日も出身地もバラバラであるということである。

しかも、それだけの人間が事件現場にいたにも関わらず犯人らしき人物を見たという人間は1人もいない。

さらに当日のその時間、上空に飛行物はなく全くの快晴であった。

私、貴船 貴子はその事件を解明するために動く。

あの事件以降、一か月に平均して二名の餓死者が突如としてその死体を表すという現象が続いている。

共通することは餓死者は全て十二歳前後の少年であるということだけ。

私はこの意味不明な超常現象じみた事件を前に頭を抱えていた。

あの日、という言葉が想起される。

最近では、ほとんど机に向かっているか事件現場に足を運んでは聞き込みを行っている。

それ以外の時間は被害者の近辺を調査するも成果は上がらず、ただ時間だけが過ぎ去っていた。

考えていてもどうにもならず少し伸びをする。

骨がバキバキと音を立てた。

ため息が零れ、項垂れる。

今は亡き加賀美の机が目に入った。

白窓街、加賀美はそこで殺されている。

正確には手のひらサイズで正方形の薄い紙のような束、バラバラ死体のようにされていた。

殺人かどうかも定かではない。

しかし、その場にいた信貴 綾は僕がやったと自ら名乗り出た。

おおよそ人間に成し得る技ではない。

そして、彼女はあの日を経験したと言う。

我々は彼女の処遇をどうするべきか正解がわからず精神錯乱により保護という形で半ば監禁状態にし、その身を手の届く範囲に留めている。

奇しくも加賀美が死ぬ日に面会した佐々木と同じような状態だった。

加賀美の死体はあまりにも異常な状態で確認され我々を大いに震撼させる。

それ以来、皆不安がってか白窓街にはほとんど触れられていないというのが現状だった。

私は上着を着ると珈琲を飲み干した。

不安な感情は残るものの餓死事件についても答えは出ず白窓街に行って何か新たなことでも見つからないかと考える。

半ばやけになっていたのかもしれない。

白窓街では橘という女の報告もあった。

ただ、信貴曰く六階から飛び降りたそうだが。

おそらくは死んでいるだろうが死体が発見されていない以上確信ではない。

その女についても深く調査したいところだった。

彼女もあの日を経験している可能性がある。

どうしてか、この加賀美の異常な死や白窓街という異質な空間、餓死体の数々はどこかで繋がっているようなそんな予感が私の中にはあった。

白窓街に近づくにつれ人気は減り陰鬱とした雰囲気が立ち込め始める。

白窓街がうっすらと見え始めるころには辺りは昼間だというのに薄暗かった。

かつて白窓街に出向いたことのある者はそこを異界のようだと言う。

確かに遠目に見る白窓街はその見た目からか風景に違和感を与えている。

しかし白窓街よりも私に違和感を与えるものを私は視界の中に発見する。

それは小さな一軒家だが、もう誰も住んでいないのか廃墟のようになっている。

どうしてだかわからないが何か不思議な違和感をそこから感じた。

何ら異常性のないただの廃墟、一目見る分にはそうとしか言いようがなかった。

だが、ゆっくりと観察するにつれて何か心を逆立てさせるようなそんな雰囲気を帯び始める。

まるで、こここそが異界の入口だと言わんばかりであった。

私は私の直感のままに中へと入っていく。

庭は草が生い茂り長らく誰も足を踏み入れていないことを示している。

入口は引き戸のようで鍵はかかっていない。

念の為、声をかけたが中からの応答はなかった。

戸を開こうと手をかけ動かすと鉄の軋む音、ゆっくりと動くたびに溢れる埃に人はもういないのだと気づかされる。

思いの外、整頓された室内は畳が敷かれており少し埃臭いものの外から見て想像した内部とは裏腹に古くには人がいたようなそんな気配を漂わせる。

そうは言っても歩くたびに埃は舞い廃墟特有の木が腐ったのか朽ちた畳からなのか異臭が立ち込める。

一体この廃墟の何が気にかかったのか私には自分が過労でおかしくなったのかとも思った。

念のため物色を始める。

さほど大きくはない室内はすぐに調べ終わり残すは押し入れだけとなった頃。

外で雨の降り始める音がした。

やはり相当くたびれているのか雨の衝撃に家が軋む。

雲が空を覆い、室内から光を奪っていく。

「お姉さん、ここで何をしているの。」

女の声が玄関から聞こえる。

間違いなく人間の足跡などは確認できなかった。

庭の惨状を見る限り、ここに人が住んでいることはほぼありえない。

視線を移すと白いワンピース姿の女が麦わら帽子を被って立っている。

その女が露出する肌は青白く、夥しく血管が浮き出ており、まばらな白髪がちらついた。

ほんのりと濁った瞳に薄いピンク色の瞳孔が確信させる。

白屍病。

感染することはないと言われているが、その見た目の薄気味悪さから忌み嫌われてきた病だった。

「ごめんなさい、警察です。

あなたは……ここに住んでいるの?」

彼女に恐る恐る話しかけた。

仮にここの住人であったとすれば私は大変なことをしてしまったことになってしまう。

女は肯定することも否定することもなくこちらを見ている。

彼女は少女というには大人びているが成人かと言われれば悩むような見た目をしており、その不安定な造形がより不気味さを際立てた。

その静寂は私に大いなる恐怖を齎す。

女の体が全く濡れていない。

では、室内にいたのだろうか。

そうは言っても私は先ほどまでこの家に中を物色し靴棚に至るまでを開けている。

言い知れぬ不安が私を包み込んだ。

「押し入れの中は見たの?」

彼女はそう私に問いかけた。

「いえ、まだ見ていないわ。」

私の声は相応に震えていた。

「見ていいよ。」

そう言うと指を指して私に催促をする。

怯えながらもその押し入れに手をかけた。

ゆっくりとふすまを引っ張る。

物音を立てながら少しづつ開いていく。

今すぐにでも逃げ出してしまおうかと思うが出口は女によって塞がれている。

考えが頭を巡れば巡るほど押し入れは早く開いた。

開き切ったそこには何人かのミイラのようになった死体が転がっており、押し入れの開いた衝撃からか1体が私の足元に転がり落ちる。

それを前に唖然としたが瞬間的にあの女がやったことだと感じ振り返るが、そこに女の姿はなかった。

1歩を踏み出そうとして足が震えていることを理解する。

追うよりも、この家をより詳しく調べることが先決と自分に言い聞かせた私は押し入れの死体には触れないように中を覗く。

そこには死体以外には何も入ってはいないようであった。

まるで死体を入れるためだけに作られたかのような空間。

そこから何かを得ることは出来そうにない。

追わなかったことに罪悪感を感じたくないのか、私はわざわざ畳を一枚ずつ捲る。

押し入れの中から死体を出して捜索したい気持ちはあったが死体に触れることは危険だと、何よりあの押し入れに対する恐怖心がそれをさせなかった。

最後の畳を捲った時、1枚の紙が落ちているのを発見する。

柏木 凛檎

そう書かれた紙切れにはクレヨンで描かれた家族のような絵とそれぞれに数字が割り振られており、父らしき人物に一、母に二、姉には三という数字とバツのマークが描かれている。

子供が描いたような暖かみのある絵だった。

ただ、それが何を意味するのかはわからなかったが回収することとする。

そして、1呼吸置いた後1つの疑問が浮かび上がった。

ミイラ化しているとはいえあの数の死体、少しも臭いがしないのはおかしい。

あれらの死体は洗ってあったということだろうか。

血抜きをして内臓を取り出したというのだろうか。

もし仮にそうだとするならば、そう考えるとその異常性に吐き気を催した。

もしくは全ての死体がミイラのようになっていることから完全にその状態と化してからここに運んだのか。

少しずつ脳が周り始める。

ある程度状況にも慣れ冷静な判断ができるようになってくると気になるのは先ほどの女であった。

落ち着いて考えれば逃してしまったという焦りを感じる必要はない。

白屍病などという珍しい病の女、探せばすぐに見つかりそうなものであったからだ。

病院を虱潰しに探すか白屍病の人間の情報提供を募ればすぐだろう。

軽くメモを取るとこの建物から出ようと体を動かした。

玄関の引き戸に手をかけようとした時、不可解なことに気が付く。

すりガラス越しに見える風景が赤い。

それに中に入る時、私は戸を閉めておらずあの女が閉める音も聞こえなかった。

焦って思い切り扉を開けてしまう。

そこには一面の彼岸花が咲き乱れていた。

「これは、いったい。」

思はず呟いてしまう。

彼岸花の中へと足を進めて行く。

踏みしめ折れた茎からはあの独特な匂いが立ち込める。

いつの間にか差し込む夕焼け空とヒグラシの鳴き声が辺りに響く。

どこまで見渡しても平地に咲き乱れる赤い花に頭がおかしくなりそうだった。

こんな異常な場所ではヒグラシの鳴き声にノスタルジーなど微塵も感じることはできない。

最悪なことに通信機器の類は全て使えなくなっている。

少しの時間で夕日が傾き真っ赤な夕焼けに世界が燃え始めると次第に地平線が赤く染まった。

この場所では時間の流れさえも独自のものがあるのかもしれない。

パキリパキリと花の茎を踏みしめる音が連続する。

11つが生命の終わりの音のようで不快だった。

「あれは。」

私は視界の奥に何かが動くのを確認した。

私はどうしてかその変化に安堵を覚えていた。

何一つ変わらない異界の風景が連続する様は私の精神を蝕むに十分だったということだろうか。

その小さな変化を見逃さないほどに私は鋭敏になっていた。

目を凝らすとそこには少年が走っているのが見える。

それは焦っているのか鬼気迫る表情で、まるで何かから逃げるようだった。

「君、大丈夫かい。」

私は声を張り上げ少年に向かって叫んだ。

何か嫌な感じはあったものの結局その少年と接触するほかに打開策があるわけでもなかったのだ。

あの少年が異界の悪魔か何かでないことを祈りつつ少年を見つめる。

彼は私を発見するとしきりに背後を気にしつつ走り寄ってきた。

距離が縮まるごとにわかるその表情は若干の恐怖すら抱かせるほどの怯えた顔をしている。

目は涙を流し血走っており全身から汗を流す様子は長く動き続けている証拠だろう。

私の近くで立ち止まると息を荒げながら何か言葉にならない言葉を喋り続けている。

「どうしたの?」

私は少年の肩に手を置くと落ち着かせた。

服は汗で湿っていて、その体温は高く肩からでも鼓動が感じられるほどに心拍は大きくなっている。

「あいつが来る。

あいつに捕まったらおしまいなんだ。」

不気味なことを何度か呟いて座り込んでしまう。

ガタガタと全身で震えているのがわかった。

私はポケットにお菓子が入っているのを思い出し、それを取り出す。

箱の中に何本かのお菓子が入っているタイプのもので糖分欲しさにいつも持ち歩いているものだった。

蓋を開け少年に差し出す。

「食べるかい?」

私も同じ高さに腰を落として話しかける。

少年は顔を上げると放心状態になった。

あれだけ血走っていた目は虚ろになり、ただ箱の中を見つめ続けている。

自身を落ち着かせようと嫌いなお菓子だったのだろうかなどと冗談めいた考えを巡らせてみたりもするが、その光景はあまりにも不気味である。

より深く少年の顔を覗き込む。

そこには箱の中から一本の指が少年の鼻を突いているのが見える。

白く血管の浮き出た細い指だった。

私は悲鳴を漏らすと箱を遠くへ投げ捨てる。

安否を確認しようと少年に目線を戻すと少年はいなくなっていた。

生唾を飲み込んだ音が響く。

目の前で起こっていることが理解できずにいる。

ここは危険だ。

それ以外の言葉が出てこない。

鼓動が早くなる。

頭以外が熱くなる。

ゆっくりとだが少しずつ足を進め始める。

ただ1面を埋める彼岸花だけが流れていく。

変わらない景色に焦りが言動になってあらわれ始めていた。

独り言が断続的に続く、自分を言い聞かせるように落ち着けと囁く。

その騒音を裂くように小さな声が響いた。

「お姉さん。」

振り返ると先ほどの白屍病の女が立っていた。

真っ赤な彼岸花に真っ白な女の対比が目をおかしくさせる。

「お姉さんは僕から逃げるんだ、僕に捕まったらお姉さんの負けなんだ。

満月が昇るまで逃げ続けてね。」

女は唐突に不思議なことを喋り始めた。

「何を言ってるんだ。」

私が女に近づこうとすると女は表情を変えて叫んだ。

「逃げろよ。」

突然の大声に私は硬直してしまう。

「早く。」

女の怒声が彼岸花と夕焼けに溶け込んだ。

私はまだ動けないでいる。

女がまた怒鳴ろうと息を吸った時、彼女の鼻から血が流れ始めた。

かなりの量が流れ始めた頃、鼻血の中に何かが蠢いているのが見える。

すると羽化したてのような蝶が流れて彼女の肩に止まった。

それが何匹も何匹も続く。

一匹の蝶は血の流れに従って、口元へと流れ顎先から地面に落ちた。

女は鼻から流れるそれを1匹、舌ですくうと口へと運ぶ。

強く奥歯で噛み締めるように顔を歪めると飲み込んで笑った。

その光景を前に背を見せて逃げるほかになく、この異常事態に精神が歪んでいくのがわかる。

女が私を追ってくることはなかった。

完全に女の姿が見えなくなるまで走ると息を整えるために立ち止まる。

この吐く息さえも女に聞こえているのではないかと不安になる。

あんな細い体の女に私を殺すほどの力があるのかわからなかったが今は恐怖が圧倒的に勝っていた。

女の言う通り夕日は陰り始めていた。

追ってくる気配ない。

とりあえず満月を待つしかないのかもしれない。

煙草を1本取りだすと吸おうとして、煙か匂いで場所がばれてしまうかもしれないことに気が付きやめた。

どうしようもない苛立ちが私を襲うと箱を投げ捨てた。

「ちくしょう。」

私はそう呟くと投げ捨てた箱を拾い上げようと腰をかがめる。

衝撃で開いた箱の中が視界に入った。

そこにある光景に我が目を疑うことになる。

箱の中の暗がりに覗き込むように少女のピンク色の瞳が浮かんでいた。

後ずさりをしてまた少し走る。

あまりの恐怖から見た幻覚だ。

また言い聞かせると1度立ち止まる。

震える手で名刺ケースを取り出すとこれも投げ捨てた。

名刺の束が彼岸花の中に溢れる。

それでも不安の残る私は衣服も全て脱ぎ捨て裸になった。

意味の分からないことがこうも連続して起きると脳がどうにかなってしまったのかと心配になる。

まだ夕日は辛うじて落ちていない。

何が正解なのかわからなくなっていた。

この夕日の次が満月である確信も本当に夜が来るのかさえもわからない。

仮に夜が来たとしてもそれが新月だったならどうなるだろう。

私は私でいられるのだろうか。

そんな不安が全身を撫で回す。

裸足の足に彼岸花の感覚が伝う。

唇を噛み締める私の背後でどさりと音がする。

背後にはやせ細って幽鬼のようになった死体が転がっていた。

軽く笑い声を上げて空を見る。

黒い箱が宙に浮いていた。

異常事態に次ぐ異常事態。

どうしてか私はそれを見て少しの落ち着きを取り戻していた。

深呼吸をすると震えが少しだけましになる。

1面は彼岸花しかない。

身を隠すことなど不可能だった。

だが私は立ったまま息を潜める。

そして、もう一度死体に目をやった。

私は気づかなくてもいいことに気づいてしまったのかもしれない。

死体が潰した彼岸花の下この世界の大地の正体、彼岸花は死体から生えている。

まさかと私は足で花を蹴散らす。

同じように死体が転がっている。

素足に感じていた土の感触が次第に変わり始めた。

死体の上に咲く花、私はずっとその上を動き続けていた。

ため息が零れる。

もうどうしようもないのだなと諦めの心が現れ始める。

この場所であの女から逃げきることは運の世界だろうと感じた。

最早、私にできることは神経を研ぎ澄ませて満月を待つことだけだった。

それ以外に私には何も思いつかない。

ゆっくりとゆっくりと真っ赤に腫れあがった夕日は闇へと沈んでいく。

悠久のようにも感じる。

気を抜けば後ろにあの少女が立っているような気がしてならない。

胸を打つ鼓動が私を焦らした。

空を見上げて気づいたが、あの箱が1つではなく至る所に浮いているのがわかる。

全てがあの女であるような気がして目が離せない。

夕日が落ちるにつれて光も薄くなる。

終わりが近づけば近づくほどに暗闇に箱が溶け込んで見えづらい。

もう少し、もう少しで。

私は月を待つ。

こんなにも夜を渇望したのは初めてだ。

今夜はきっと満月になる、そう信じるのも。

しかし疲れからか強烈な睡魔が私を襲い始めた。

私は拳を握りしめて意識を保とうとする。

血が流れ始めた。

それでも睡魔は容赦なく溢れ出る。

もう意識が途切れてしまいそうだと座り込んでしまう。

皮膚に死体の感触が冷たく伝わった。

潰れた彼岸花が皮膚をなぞって気持ちが悪い。

空からお姉さんと声が聞こえる。

サイレンのように響くそれはまさに絶望の風景と言えるだろう。

立ち上がろとして崩れ落ちた。

彼岸花が冷たく肌に据えられ、何本かが尻で潰れるのがわかった。

瞳を閉じそうになる。

「もうだめだ。」

そう呟いて倒れ込もうとした時。

「おめでとう。

あなたはまだ殺せないみたい。」

とあの女の声で聞こえたような気がした。