「デカラビア」
黒い雨を降らせ空を緑に輝かせる。
残される。
ただ、星の降る夜。
罪は流れる。
世界を手に入れる。
創造の苦しみを与えられる。
「一九九八年、六月、八日」
部屋の中から窓の外を覗く午後二時頃、私は忌むべきあの日を体験することになった。
大きな雷の音がした後、黒い大雨が続いたのを覚えている。
私はただ六畳一間のこの部屋からそれを見つめていた。
湿った畳が匂い始めて扇風機の音が雨音に消える。
三十分くらいだっただろうか。
そんな悪天候が終わり、緑色の空が現れてたくさんの星が降り注ぐ。
深く、澱んだ緑の下で世界は大きな変化を迎えることになる。
あの空が現れて一体何が起こったのか、それは未だに誰もわかっていない。
ただ、生命の多くが死に絶え夜がなくなった。
死に絶えた生命がどうなったのかは誰もわからない。
忽然と姿を消したというのが正解かもしれない。
でも、どうしてか皆は理解している。
彼らは消えたわけでも隠されてしまったわけでもない。
死んでいなくなってしまったのだと理解している。
根拠はないが、そうわかっていた。
そして、もう一つ。
私に起こった不可思議なことがある。
あの夜を洗い流したかのような黒い大雨の後、私は友人の元へと向かった。
彼女がとても慌てていたのを覚えている。
私はそれを少し気怠く感じた。
ほんの少し、心のどこかでそう思ってしまう。
落ち着かせようと彼女の肩を触ると、彼女が痛みに悶え始めた。
この姿は未だに私の記憶に鮮やかに残っている。
そして、口から臓器のようなものを吐き出し始めた。
次第にそれは私でも見たことのない物体を吐き出し始める。
肺臓や心臓、最後に脳を吐いて動かなくなった。
その時は私に原因があるとは微塵も思わなかった。
何か得体の知れない病気が蔓延したのではないか。
あの黒い雨になにか毒性の物質が混じっていたのではないか。
そんなことを考えていた。
少しして人が駆け寄ってくる。
私はその時、面倒だと思った。
いや、きっと思ってしまったというのが正しいのかもしれない。
彼は私の手に触れ、同じ症状になって死んだ。
私は震える。
これは夢なんだと何度も祈った。
そうしている内に吐き気が私を襲った。
私は目の前の二人の死体を前に自らの死を覚悟する。
だが、吐き出したものはもっと別のものだった。
何十匹かの芋虫を吐き出す。
口の中に粘性の液体が張り付いて唇からは糸が垂れた。
奥歯で何匹か噛み潰してしまったのか歯に詰まった何かを感じる。
クリーミーでいて不快感の塊が喉へと流れる。
緑色の液体が唇を湿らせた。
私の口から出てきたそれらはもぞもぞと蠢いて、慌ただしく動き始める。
これがあの日私が体験した全てだった。
「デカラビアⅡ」
手のひらは苦しみを握る。
苦しみは譲渡される。
世界は浸食しあう。
星とは五芒星。
罪は五つある。
「黒い雨、緑の空、星降る夜」
僕はため息をつくと煙草に火をつけた。
信貴 綾、二十七歳。
この事件を担当して数か月、路上に臓器を吐き出して死んだ二人の死、その原因は全くわからないままだった。
それどころか、僕を悩ませるものは次々に増え始めている。
窓から吹き込む風が髪を撫でるが、頭は重いままでどこか遠くへ身を隠してやりたい気分が私の中に沈殿していることにかわりはなかった。
ここ最近、何件も頻発している不審死事件。
その犯人と思われる人間が揃って口にする言葉、黒い雨、緑の空、星降る夜に。
これらの言葉に一体どのような関連性を持っているのか僕には全く理解できない。
彼らは一様に一九九八年六月八日にそれを見て経験したという。
そして警察組織内に、いつの日からか存在するルール。
あの日を経験した者を追求しなければならないという掟。
あの日が何なのか、なぜそれを経験した者を追求しなければいけないのか。
全てが漠然としていて、突然に現れた規則。
神のような誰かが突然に書き加えたかのような、そんな決まり。
三年前のその日、何があったのか。
それを突き止めたいという知的探求心が私をより深く悩みの淵へと突き落とした。
だが、その日を体験したという一人を保護できているというのはせめてもの救いだった。
佐々木真那津、二十六歳、女、連続殺人鬼。
二人の死体が横たわる中央、放心状態で拘束された彼女は三年前に発生していた連続男子児童誘拐殺害事件の犯人であった。
被害者は皆、一様に小学三年生の男子児童で私立小学校に通い比較的裕福な家庭に生まれた者、胸を包丁で一突きに殺されている。
そして口内から喉奥にかけての無数のひっかき傷という異常性から犯人は爪の怪人と呼ばれ、近隣住民から恐れられた。
その傷は報道こそひっかき傷と言っているが、その実はより凄惨なもので傷は胃の中に達するものもあった。
おそらく被害者は生きている内に拷問のようにその所業を受けている。
食道の一部にはつねったような跡も存在したという。
そんな犯人がようやく捕まったというのに表向きには裁判を執り行っているように見せかけ、裏では実質保護的な扱いを受け監禁されいるというのは悲しいものであった。
誰もこの現状に疑いを抱く者無し。
しかし、彼女の捕獲からわかったことは私なりに少しだけ存在している。
現状あの日を経験した者は皆、過去に犯罪を犯している者であるということだ。
といっても彼女を含め捕獲に成功した者は二名で一人は逃亡中、私の推測の域を出ない。
もう、死刑囚か何かを佐々木の前に連れていってこの場でこいつを殺してみろとでも言って殺させるのが手っ取り早いんじゃないかとさえ思う。
内臓を吐き出して死ぬなどとそんなことをコントロールして行えるというのなら彼女は本当に怪人かその類だろう。
だが、実際問題いま起こっている不審死の一部にはおおよそ説明のつかない死に方をしていて、犯人は何らかの技術か能力を有していると考えるのは不思議ではない。
「あまり思いつめるのはよくない。」
そう言って僕の机に珈琲を運んできたのは直属の上司である加賀美だった。
そうは言ってもここまでで私がたどり着いたことと言えば、あの日の経験者は皆犯罪者ということだけで、このことすらも憶測の域を出ていないというのが正解だ。
つまるところ、僕は加賀美にあまり才能を感じていない。
彼とこれ以上会話をしていても時間の無駄だと感じ席を立つ。
そろそろ佐々木と面会を行う時間であった。
ちょっと待てと加賀美は僕の肩を掴む。
「信貴、君はここ連日の溺死事件についてどう思っている?」
彼が言っているのはこの数日間で少なくとも三件は確認されている溺死事件のことだろう。
被害者の死因は溺死でこれだけならこの暑い八月の天気の中、海か川にでも溺れたのだろうと思うかもしれない。
だが、この三件に共通している不審な点があった。
全員が全員、自宅で溺死しているのだ。
それも居間や寝室、おおよそ溺死するほどの水とは縁のない場所だった。
そして、それらは全て被害者の体内から吐き出された水だという。
つまり被害者は溺死するまで呼吸器官から水を吐き続けていたということだ。
なにより不気味なのが、彼らが死亡した場所は全て白窓街の一室ということ。
「この後白窓街に行ってみようと思うんだが、君もどうだろう。」
佐々木に夢中になっていた私に思いもよらない提案がなされる。
思考を巡らせ、考えをまとめる。
少しでも変化が欲しかったことと面会の時間が差し迫っていることもあって僕は結局、了承し珈琲を飲み干した。
思いの外熱くて、後悔した。
「デカラビアⅢ」
与えられるものは差異を持つ。
創造の産物は生命とは異なる。
その死さえも歪む者。
その日は平等ではない。
「殺人鬼、理由、あの日」
両手両足を拘束され、パイプ椅子に腰かける佐々木を前に毎度、僕は少しの恐怖を覚える。
黒く傷んだ髪ときつい目つきが印象的だった。
机を挟み、向かい合うように腰かけると挨拶も無しに口を開く。
「あなたはあなた以外の人間が黒い雨、緑の空、星が降る夜を見たと思いますか。」
僕は限られた時間の中で少しでも成果を出そうと最初からあの日のことについて質問をする。
佐々木は黙ったまま下を向き続けた。
「答えてはいただけないですか。」
どうして僕はこんな殺人犯に丁寧な態度をとらねばならないのだろう。
非人道的でもかまわない暴力でもなんでも拷問を加えたい気分だ。
彼女とは数回面会をしているが最初にあの日のことを話して以降、黙ったままだった。
さすがに苛立ちが募ってくる。
指が何度も机を叩く。
僕がもう一度質問を行おうとした時、佐々木は口を開いた。
「加賀美さんはいらっしゃらないんですか。」
僕はへし折ってしまいそうな勢いでペンを握りしめた。
彼女は続ける。
「加賀美 湊君のお父さんがここで働いていると聞きました。
いらっしゃらないんですか。」
ようやく口を開いたかと思えば自分が殺した少年の父親に会いたいと話すその女が異様にまでに憎たらしく感じる。
この佐々木という女の被害者の一人に加賀美 湊という少年がいた。
私の無能な上司、加賀美 徹の息子だ。
第一発見者は加賀美本人で帰宅後すぐに見つけたらしい。
引っ掻きまわされた食道からは大量に血が噴き出し泡のように口から垂れていたそうだ。
そんなこともあったせいか加賀美は佐々木との面会を禁止されている。
暴走して折角の成果を殺されたくないという上の判断だろうと思う。
その上の判断が何者によるものなのか、気に掛ける者無し。
だが、これに関しては僕も賛成だ。
あまり言いたくはないが佐々木の存在ははっきり言ってありがたい。
私は極力、怒りの感情のばれないように佐々木に言葉を返す。
「謝罪の言葉なら、僕から伝えておきますので。」
そう言うと彼女は首を振って笑った。
「謝罪……。
いったい何に謝るのか。
衝動とは運命で運命とは巻き込むもの。
むしろ運命の条件を整えてくれた彼の良心に感謝したい。
この私に素晴らしい運命をありがとう、そう伝えて欲しい。
願わくば顔を合わせたいがね。」
さすがに我慢の限界は存在しているようで僕は持っていたペンを佐々木に投げつけた。
「ふざけるなよ。」
怒号をあげる僕を警備の者が抑えると退室を命じられた。
殺してしまいたいほどに彼女が憎く感じた。
あの女は本当に罪悪感など微塵も感じていない、むしろ感謝しているというのは本当なのだろう。
その異常な価値観が本当に腹立たしい。
人類にとっての異物だ。
去り際に見たあの目を私が許すことはないだろうと思う。
自分が運命の中心だとでも言いたげな、万物を見下したような目だった。
今の僕の足音はきっと相当にうるさいはずだ。
すれ違う全員が僕に道を譲っている。
部署に戻ると加賀美が僕を待っていた。
「行こうか。」
息子を殺され直接の面会を禁じられている加賀美が笑っているのを見て気分が少しだけ和らいだ。
こんな愚か者もいるのだと安堵する。
「ただ、場所は白窓街なんだ十分気をつけろよ。」
薄々気づいてはいたが彼はやはり優しかった。
まあ、彼が心配するのも無理はない。
そこは金がない者や社会的地位の低い者、病人、そう言った人間のたまり場となっている。
それに白窓街その名前の由来となったその風貌、ガラス窓を含む全てが白く塗りつぶされたコンクリートのマンションが連なる街。
願わくば近寄りたくない場所であることに間違いはなかった。
「デカラビアⅣ」
罪人は選ばれる。
悪夢のようでいて悪夢でない夢。
歪な大願成就。
彼らは五人の灯。
「白窓街、繭、蜘蛛」
加賀美に連れられ、僕は白窓街にたどり着く。
実際に見ると確かに薄気味悪い場所だった。
苔むしたヒビ入りの真っ白なコンクリートと塗りつぶされた全ての窓。
元来、人は地の色や緑の色に安心感を抱くそうだ。
それは生まれてから最も多く目にする色で自然と心を落ち着かせるとかそういうことらしいが、ここにはそれらの色が苔の僅かな緑以外に存在しない。
人が住む気配など微塵も感じられなかった。
だが今回の溺死事件は全てこの中で起こったこと。
その事実が僕を前へと運んだ。
「気をつけろよ。」
加賀美はそう言って僕の前に立って歩き出す。
「本当に人がいるんでしょうか。」
疑問を言葉にする。
「警戒されてるんだろ。」
加賀美はそう言いながら辺りをしきりに見渡す。
白窓街の人間はよそ者をやたらに嫌う印象が確かにあった。
とりあえず犯行現場に向かうこととなった僕たちは二〇一号室を探す。
少し歩いて白髪の老人が僕たちに向かって走ってくるのが見えた。
僕は身構えたが老人は自分よりも遥かに巨躯な加賀美に詰め寄って行く。
「助けてくれ、俺は近々殺されるんだ。」
老人はそうまくしたてた。
突然駆け寄ってきたかと思えば助けを求めるとは白窓街とは本当に混沌とした土地柄なのかと不思議と納得させられる。
そして加賀美が何かを言う前に、僕が言葉を遮った。
「僕達は今、この前の不審死事件について調査しているところです。
今の私たちでは、すぐにあなたを保護することはできません。」
それを聞くと老人はさらに縋りつくように言葉を発した。
「調査ってことはあんたたちは警察か何かなんだろ。
それに俺は、その犯人に殺されるんだ。
あれをやったのは四〇二号室の橘だ。」
老人の必死さは嘘をついている人間のそれではなかった。
この白窓街の中で何か起こっているのか。
そんな疑問を僕に抱かせる。
それだけの情報を僕たちが入手できていないはずがなかったからだ。
四〇二号室。
ひとまず、そこへと向かうことにした。
僕たちは老人を落ち着かせると部屋へと帰す。
無責任にも必ず何とかするなどとと口にする加賀美をより一層に見下しながら。
四〇二号室は隣の棟にあるようだった。
そして不可解なことに気が付く。
この白窓街と呼ばれるマンション群は部屋番号が階数や位置とは全く関連性がなく、その番号はバラバラであるということだ。
つまり、四階にあるので四百番台ということではないようであった。
事実、僕たちが今から向かうのはおそらく二棟目の六階であり、その屋へ番号とは全くもって関連性のない位置に存在していた。
何か気味の悪さを覚えながらも二棟目へと向かう渡り廊下を探す。
やはり、その道中も人の気配はほとんど感じない。
どこか、この白窓街全体が何らかの異空間に存在しているのではないかとさえ考えてしまう。
部屋番号がバラバラに設定されているのもこの世界独特の数字におけるルールに則っているような。
僕はよく現実主義者だと言われるが、それでも尚この場所においてはそんな非現実的な考えを持ってしまう。
それほどまでにこの空間は異常であり非日常的であった。
「あれじゃないか。」
加賀美の言葉に目線を移すと、確かに渡り廊下のようなものが見えた。
だが、それは渡り廊下というにはあまりにも巨大なようにも感じる。
白く続く壁に突然のように現れる四角形の穴は縦こそ天井の都合で一般的だが横がとにかく広い。
横に人が十人ほど並んで歩けるのではないかと思うほどに広い。
さらに観察するとその渡り廊下は入口こそ天井の都合で縦幅が狭くなっているものの中に入れば縦の長ささえも長くなっているようだった。
一体なぜ渡り廊下がこんなにも大きく広いのか憶測するには材料が少なすぎた。
いや、意味など無いのかもしれない。
狂人達の思い付きで出来た夢想の城、そんな場所なのかも知れない。
万物に意味を見出すなど、それこそ愚か者なのか。
そうは考えつつも思考は巡る。
何かヒントを探そうと入り口付近に立つ1人の男に話を聞くこととした。
露店のようなものを開きながら男は店番でもしているのだろうか。
店番だと断言できないのには理由があった。
この男は何か常人ではない違和感を雰囲気として纏っているのだ。
その目は客を探すわけでもなく、商品を管理するわけでもなく、ただ1点を虚ろな目で見つめ続けている。
一応、話を聞いてみようということになり男に近づいた。
上裸の彼に近づくと甘い匂いに肉の腐敗臭が混じったような臭いが鼻につく。
「ここで何をしているんだ。」
加賀美の言葉に、男は言葉を紡ぐ。
「肉を売っています。
そうしないと、いけないんです。」
確かに露店の中には肉のようなものがいくつか並んで置いてある。
だが、どれも変色していてひどく腐乱している。
男はその足元で麝香を焚いているようだった。
あの不快な臭いの正体はこれらだとわかる。
「どうしてこんな腐った肉を売らなければならないんだ。」
加賀美は詰めた。
「見られている。
私たちは見られている。
この廊下を渡るなら気を付けてください。
私になりますよ。」
最早、正気を持ってはいないようだった。
僕たちは見切りをつけると先に進む。
中を見渡しながら進む僕はさらに気持ちの悪さを覚えた。
白く塗りつぶされたコンクリートによって気が付けなかったが、そこには真っ白な何かの繭がびっしりと並んでいた。
壁一面に続くそれは異常発生などという言葉では片づけられない恐怖を感じる。
さっさと渡り切ってしまおうという焦燥感が僕を包む。
「待て。」
加賀美の声で僕は1人ではないという安心感を覚える。
どうしたのかと目線を送ると廊下の終わりを指さす。
女が1人蹲っているのが見えた。
黒い髪が顔を覆って表情はうまく見えない。
項垂れるポニーテイルが淫靡な情景のようにも伺える。
様子がおかしい。
小刻みに肩を震わせ苦しんでいるようにも見えた。
少しばかりして血を流し始める。
「大丈夫か。」
加賀美が駆け寄ろうとすると女はこちらを見てどこかへ走り去る。
その瞬間の目元には何か虫の足のようなものが垂れ、血走った目がこちらを睨みつけているようにも見えた。
追いかけようとする加賀美を僕は制止する。
女が蹲っていた後には血だまりと無数の蜘蛛が徘徊していた。
蜘蛛を確認し、壁中の繭が蜘蛛の卵なんだと理解する。
何か嫌な予感がして今日はもう帰ろうと加賀美を諭すが彼は橘に会うまでは帰れないと言う。
こうなってしまっては加賀美を止めることはできなかった。
彼は昔から正義感と責任感でできたような人間で、やると決めたからには意地でもそれを押し通そうとする。
僕からすれば悪い癖以外の何物でもなかったが僕にはない彼の根性だと羨ましく思う部分でもあった。
「四〇二号室に行こう。」
僕は仕方なく着いて行くことにした。
本当のところはきっと本望だったかもしれない。
ただ何か得体の知れないものに心臓を掴まれているかのような気分を覗けば、だが。
不意に加賀美の肩越しにイトスギの木が揺れているのが見えた。
この辺りにあんなもの生えていただろうか。
外から見た時には全く気が付かなかった。
小走り気味に目的地を目指すと僕の少ない体力が削られていくのがわかる。
もう少し周りを見て欲しいものだと加賀美に思う。
脇に流れる白い光景を見ているとまたしても非現実的な妄想に脳が支配されそうになった。
「着いたぞ。」
加賀美のその1言で僕が現実に帰ることができた。
目の前には四〇二号と書かれた部屋がある。
彼がインターホンを鳴らす。
中から少しの物音がして扉が開き、身構える。
そこには先ほどの女が立っていた。
血の跡もなくその顔は普通の人間のものに見えた。
「この白窓街で起こった事件について調査している。
協力してもらいたい。」
女は少し考えたようだったが僕たちを中へと招いた。
殺風景なワンルームがそこにはあった。
畳が少し湿っているのか、臭った。
小さな折り畳みの机があり、僕たちは女と向かい合うように腰かけた。
自らの名前を名乗り自己紹介を済ませる。
「橘 葉狐です。」
女はそう名乗った。
橘という苗字が僕の中で何度か反芻する。
僕は単刀直入に彼女に尋ねた。
「この白窓街で起こっている連続溺死事件について何か知っていますか。」
彼女は全くわからないといった様子だった。
ただ、その表情こそ変わらないものの目は常に笑っているようで人を小馬鹿にしたような、そんな印象を抱かせる。
僕は質問を変えて彼女の目を見つめなおした。
「一九九八年六月八日、あなたは何をしていましたか。」
普通ならば、そんなピンポイントな記憶を思い出すことなど無理だろう。
もし少しでも行動に変化が出れば詰めてやろうと思っていた。
しかし、彼女は口をあっさりと開いた。
「あの日私は黒い雨を浴びて、緑の空を見ていて。」
女の口角が少し上がったように感じる。
不気味な笑みというものを具体的に表したような表情だった。
「そして、星が降り注いだ。」
女は悦に浸るように恍惚とした表情をしている。
逆に加賀美の顔は強張っていた。
あの日を経験した者は現状わかっている全ての人間が犯罪者である僕の推測が脳裏を過る。
加賀美が続けた。
「何か、人の死に深く関わったことはありますか。」
女はまた少し微笑んだ。
「十二歳の頃だったと思います。
ニュースにもなったのでもしかしたら記憶にあるかもしれません。
川で遊んでいて目の前で友人が二人流されてしまいました。
あの時はあの川があんなにも急流だとは知らずに。」
目に少しばかりの涙を浮かべているのが見える。
なんとも感情の豊かな女のようだ。
「三人で遊んでいて、私だけが生き残りました。」
「そう、ですか。」
加賀美は少しバツの悪そうな顔をした。
「二人とも綺麗な顔立ちをしていたんですよ。」
感傷に浸るように天井を見つめ、あえて涙が流れるように加賀美の方に顔を傾ける。
「あなたのように。」
そう言って女は僕の顔を撫でた。
瞬時に僕を得体のしれない吐き気が襲う。
体内のどこかから溢れ出るそれは喉を上り口内へと広がる。
耐えられなくなりそれを吐き出す。
僕の口から零れ流れたのは大量の真水、吐いても吐いてもなくなることはない。
息が出来ない。
水を吐き続ける僕を加賀美が介抱しようとする。
流れ続ける水は次第に僕の意識を奪い始めた。
苦しい。
ただ、そう感じるほかになかった。
「何をした。」
加賀美は女をそう怒鳴りつけた。
女は立ち上がって窓の方へと歩いた。
意識が遠くなっていく。
「星降る夜にまた会いましょう。」
女がそう言って窓から飛んで、加賀美が追いかけようとして。
僕は死んだ。