「ダフネのような恋をしよう」


 吸血鬼は恋をすると甘い匂いのする血の涙を流す。

そんなことを母が私に教えてくれたのはいつの頃だっただろうか。

子供ながらにロマンチックな生き物だと思ったのを憶えている。

ただ、それも幼いが故の無邪気さがそう思わせていただけなのかもしれない。

歳月が流れ高校生になった最初の夏、私は彼女と吸血鬼と出会う。

彼女は私の隣に席を持つ高校からの友人で何の変哲もない関係だと思っていた。

私だけはそう思っていた。

七月の中旬、もうすぐ夏休みも目前だという頃にそれは儚くも崩れ去る。

二時限目の退屈な現代文の時間。

教室は甘い香りに包まれた。

隣の席で彼女が泣いている。

必死にそれを拭ってはいるが、赤い流血は隠しきれないでいた。

「奏ちゃん。」

私が最初に声をかけたのを憶えている。

心配になってハンカチを差し出したのだ。

その瞬間に涙は壊れたダムのように溢れ出す。

クラスの皆が騒ぐ声を教師が宥めていた。

「違う。」

彼女はそう言うが、あまりにも甘いそれは嘘を隠すには不可能な程に甘い。

断っておくが、私は女だ。

恋心を抱かれるにはほんの少しの不思議がある。

「保健室に行ってきなさい。」

収集がつかないと判断したのであろう教師がそう言うと彼女は教室から駆けて出て行ってしまった。

私の手にはハンカチだけが残る。

クラスのざわつきはしばらくの間続いたが波のように消えていく。

これが悪夢というにはあまりにも美しい、美しいというにはあまりにも凄惨な私と彼女の地獄の始まりだった。

その日の放課後には既にそれは起こっていて帰り支度をする彼女を遠目に噂話をする人々の群れがいくつか点在している。

その一つに属すると彼女を可能な限り嫌悪の目で見ることに専念した。

元来、静かな性質の彼女は俯いたまま教室を後にする。

誰かが無人となった机に人外と書いたのを私は黙って見ていた。

同じ瞳で見つめていた。

「静香、一緒に帰ろ。」

親友の一人にそう声を掛けられるまで、そうしていた。

二人で靴を履き校舎を出る。

校門をくぐると青々とした雑草の生い茂る道を踏みしめた。

他愛もない、意味もない、何の変哲もない、数日後には忘れ去られる会話が続いている。

幾分か歩いた頃に会話は一時中断された。

「ねぇ、あれって。」

彼女が指さす方を見ると公園のベンチに奏が座っている。

何をするでもなく、ただぼぉっと座っていた。

ただ、座っていた。

「奏ちゃん。」

そんな私の小さな呟きが聞こえたのか単純に気配を感じたからなのかはわからないが、彼女ははっとしたように私を見つけると駆け寄って頭を下げた。

隣で小さな悲鳴が聞こえた。

「ごめんなさい。」

奏は一言、そう言うと姿そのままに走り去ってしまったので表情は見えなかったが泣いていたと思う。

「なにあれ?」

そう言う友人に私はただ同調する。

「気持ち悪かったね。」

私の中でイブが林檎を食べた瞬間だった。

別に彼女を心底気持ち悪いと思っているわけではない。

ただ己の不安をどうにかしたかっただけなのだ。

無性に晴れ渡る曇り空が私と友人とを見下している。

吹く風の一つ一つが、まるで私から衣服を一枚一枚捲り取って行くように思えた。

そんな違和感の中で歩いていると、いつの間にか友人とは別れ自宅に着いていた。

罪悪感はない、ただ不安だけがある。

あの教室に充満した甘い香りをおぼえながら扉を開けると母親が夕食の支度をしていた。

木造の決して新しくはない家屋が出汁の匂いで満たされて、ほんの少し楽になる。

「ただいま。」

昨日と何一つ変わらない言葉が同じ時刻にこだまする。

少し汗ばんだ足が靴下越しに床を湿らせる。

ほんの少し、ほんの少しだが確実に床は湿っただろう。

「もうすぐ夕食が出来るから先にお風呂でも入ったら?」

何も知らない母親が言う。

歳をくって皺が入った頬を動かしながら。

「わかった。」

言葉に従うと風呂を目指す。

どうしてか早くシャワーを浴びたいと、そう思っていた。

理由はわからない。

特別汚れたわけでもなければ風呂が好きなわけでもない。

どうしてか、早く流水に当たりたかった。

何かが流れるわけでもないのに、流水に当たりたかった。

何度も言うが、罪悪感はない。

衣服を脱ぎ捨てシャワーを勢いよく捻るとまだ冷たい液体が体に触れる。

次第に暖かくなって温度差に体が震えた。

黒い髪が濡れてより黒くなる。

体に纏わりついていた一日が流れていく。

流しても流しても流れないものがあることに気がついてはいたが、見て見ぬふりをした。

綺麗になっている。

何度もそう思った。

普段よりも念入りに体を洗う。

肌が熱とは別の赤みをおぼえる程に強く。

そうして体を流し終えると湯船には浸からずに風呂を出た。

入ってはいけない。

そう思った。

濡れた体を拭く瞬間にも力が入る。

何をこうも躍起になっているのか自分ではよくわからない。

鏡に映った自分の瞳が妙に血走っていて何かを訴えているように見える。

気のせいだと言い聞かせると食卓に向かい並んだ料理に集中することにした。

何度見てもそこに甘い菓子料理などないはずなのに、舌にあの涙の臭いが纏わりついていて上手くおいしいと言えない。

それを悟られるのが嫌ですぐに食べ終えると自室に籠った。

すぐにでも眠ってしまいたい。

そんな気分だった。

明日にはきっと昨日のような毎日に戻っているんだと言い聞かせて。

ただ、溺れるように眠りに就いた。


 朝の光が私の深く閉じた瞼を焼いているのがわかる。

起きなければ。

そんな思いが脳内を駆け巡ると自然と体が起こされた。

「おはよう、ございます。」

自分しかいないはずの自室で小さく呟くと大きな欠伸をする。

深くなる呼吸の中であの臭いがしたような気がして一気に覚醒した。

「気のせい、でしょ。」

更に呟くと朝の支度を始める。

あんなことがあったにも関わらず私は普段通り学校に行こうとしていた。

体に染みついた癖なのか、もう日常に戻っているのだと言い聞かせたいのか、理由は定かではないがただ機械のように動く。

自慢ではないが私は今の所、皆勤賞だ。

それがすごいことだとは思わないが事実だった。

用意された朝食を適当な理由をつけて無視すると家の扉を開ける。

あの朝の香りが一気に充満して鼻を抜けた。

雲一つない青空が、新緑の道路脇が私を出迎えてくれる。

「行ってきます。」

そう呟いて一歩を踏み出す。

なんでもない一日が始まるのだと思う。

そんな空想を抱きながら鞄を片手に街を歩く。

変に眠りすぎたのか、体がすこし痛い。

それをゆっくりと動かしたりしてほぐしていると背後に気配を感じて振り返る。

友人の内の一人が私を見つけたのだろうと思った。

赤信号を見つめる交差点、目の前を車が何度も行きかっている。

一歩踏み出せば死ねてしまう。

死が何度も私の目の前を通過する。

そんな場所。

振り返った私の視線の先には奏がいた。

俯いて苦しそうに震えながら彼女が立っている。

同じように死を目の前にして赤い停止の合図に身を預けていた。

「お、おはよう。」

そう声をかけると彼女はまた昨日の続きのように謝罪をした。

「本当にごめんなさい。」

そんな彼女を見ていると体の軋みが大きくなるのがわかった。

「気にしてないよ。

だから、そんなに謝らないで。」

そう告げて前に視線を戻そうとすると彼女に腕を掴まれた。

誰かに見られていたらどうしようかとか、悲鳴を上げるべきなのかとか、そんな考えが頭を過る。

「な、なに?」

冷たい言い方になっていただろうか。

「きょ、今日。

ちょっとだけ付き合ってくれないかな。」

奏の瞳は赤く濡れている。

あの甘い香りが漂い始めていた。

「な、なんで?

学校行かないとだし。」

彼女の手を振りほどこうと一生懸命になると思いの外すぐに彼女は私を解放した。

「ちゃんと、謝りたくて。

それに、こんな、勘違いされたままなんて嫌だし。」

血を拭いながら言う彼女を前に私は断るということが出来なかった。

ただ、嫌だと言えばいい。

そんな簡単なことが出来ないでいた。

クラスの誰かに見られたら、そんなことが頭の大半を占める中で私は了承する。

限りなくノーに近いイエスを私は口にする。

本当に愚かな私を神様は許してくれるだろうか。

返事を聞いた時の彼女は笑っていた。

甘い香りが朝の匂いを上書きしていく。

真っ白なハンカチを差し出しながら私は呟く。

「少しなら。」

手を引かれ、学校とは真逆の道を進んでいく。

誰ともすれ違うなと念じながら。

朝露に濡れるアスファルトを超えて、まだ新緑の残る道に足を踏み入れる。

この街に長く住んでいながらも一度も訪れたことのなかった無人の公園に辿り着いた。

園内には背の高い草が生えていて、しばらくの間人が訪れていないことが伺える。

「ここは?」

尋ねると奏はペンキの禿げた青いベンチに腰を下ろして答えた。

「秘密基地。

誰も知らないんだ。」

ベンチの周りをよく見ると血が渇いたような跡が所々に見える。

「ここで泣いてたの?」

「そう。

ずっと、そうだったんだけど。

昨日は我慢できなくて、ごめんね。」

赤く染まった甘いハンカチをポケットに仕舞うと黒いゴムを一つ取り出してその長い髪を縛る。

普段とは違う彼女の姿に一瞬だけ胸が高鳴ったような気がした。

「迷惑だったよね。

ただ、ちゃんと謝りたくて。」

申し訳なさそうにする彼女は、はっきり言って美しかった。

「いいよ。

別に。」

ただ悪魔で素っ気なく返答をする。

「もうばれてると思うけど、君が好きなんだ。

君を思うと涙が溢れる、こんなにも涙が溢れるのは初めてで、自分でもわからないくらい君が好きなんだ。」

瞳を逸らさずに言われると不思議と変な感情が湧き上がる。

「そんなこと言われても。」

私は視線を逸らす。

血の浸み込んだ大地に視線を逸らす。

「そう、だよね。

隠せなくて、ごめん。」

表情は見えない。

「いいよ。

謝らなくて。

あなたが悪いわけじゃないし。」

早くここを去りたい。

日常に戻って静かな生活がしたいと思った。

だが誰かに好意を向けられることは心地良い。

これがもっと他人からも愛される恋ならば、どれほど助かっただろうか。

「本当に君が好きなんだ。

皆にばれないようにで構わない。

少しの時間で構わない。

ここでこうして会ってくれないかな。」

彼女に手を握られ熱い言葉を投げかけられる。

「そんな。」

上手く返答が出来ない。

嫌だと言えない。

こんな陸で溺れそうになる。

「嫌、だよね。

ごめん。」

そう言って、手を離す彼女に私は言ってしまった。

「いいよ。

たまになら。」

そう言うと言葉を待っていたかのように彼女は私を抱きしめた。

「本当に?」

「うん。」

私の本当の気持ちはわからない。

果てしなく甘い眩暈がする。

「ねぇ、キスしても、いいかな?」

ここに来て初めて彼女は迷ったような言葉を放った。

小さく肩を震わせているのがわかる。

その唇は艶やかで涙で濡れて赤く染まっている。

「うん。」

私の返事はいつだってそうだった。

肩を掴まれ抱き寄せられる。

そんな時、背後で何かが動く音が聞こえた。

はっとして振り返るとクラスの男子が笑みを浮かべて私達を見ていた。

咄嗟に奏を振り払う。

「助けて。」

そう叫んでいた。

どうしてそんな言葉が出たのかはわからない。

そう叫んで男子の元に駆け寄った理由もわからない。

ただ、そうしないとまずいと思った。

何本かの草が駆ける私に踏みつぶされて折れている。

そんな音に驚いたのか数羽の鳥が飛び立った。

私を守るように彼は庇うと一言、奏に向けて言い放つ。

「変態。」

奏の顔は見れなかった。

見ようとも思わなかった。

私の為に。

私自身の為に地面以外の何も見ようとはしなかった。

彼女が何を言ったのかはわからない。

聞こえたのは、とても悲し気でか細い言い訳だった。

男子生徒に連れられて学校に向かう。

彼は優しく心配の声をかけてくれる。

やけに胸がざわめく、何かが蠢いては張り付く。

嫌な汗が首筋に流れて衣服に染みた。

学校に着くと彼は早速、皆に話し始める。

先ほど起きたことを多少の誇張を感じたが口を噤んだ。

皆が私を慰めて励ましてくれる。

誰かが奏の机をひっくり返して中身が溢れた。

丁寧に書かれたノートや折れ目一つない教科書が流れ出ると踏みつける。

胸の鼓動がひどく不規則になっているように思う。

気分が悪かった。

そんな時、教室の扉が開く音が聞こえる。

奏が少し遅れて学校に来ていた。

私は怯えた演技をする。

彼女の顔を見ないように俯き人込みに隠れた。

罵りや嘲りが聞こえる。

教室の中が煮えた鍋の中のような、そんな地獄のように思えた。

誰かが花瓶の水を彼女に浴びせるのが少し見えて、ポケットのハンカチを握りしめる。

誰かが突然現れて全部何とかしてくれればいい。

そう思う。

この日以来、奏は学校に来なくなった。

数週間が過ぎた今、彼女の存在を話す者はほとんどいない。

私自身も教室の中の小さな影になっていた。

なるべく思い出さないように記憶に蓋をするように空席になった汚い隣の席を見ないように努める。

仕方がなかったんだと何度も言い聞かせて厳重に鍵をかけていた。

昼休みももう終わろうかという時間、一人の生徒が大声を上げて皆の注目を浴びる。

何事かと私も目線を送ると彼の持つ携帯に皆の視線が集まっていた。

何を見ているのだろうと思った時、窓の外が一際大きく光った。

まるで花火のど真ん中にいるような気分だった。

あまりに眩しくて強く瞳を瞑ったのを憶えている。

その時は、この日世界が終わったなんて考えもしなかった。


 「何してるの?」

頭上から声がして、頭を上げると奏の姿があった。

「昔のことを思い出してた。」

そう告げて視線を戻す。

いつからそこにあったのかはわからないが私は湖岸に腰かけて、その水面を見つめていた。

ここは世界が終わった日に私が閉じていた瞳を開けた時、立っていた場所。

水中に咲き乱れる紫陽花の美しさに声を失ったのを憶えている。

少しして何が起きたのかわからずにいると奏がやってきて、世界が終わったことを教えてくれた。

それだけ説明して、じゃあねと去ろうとする彼女に縋りついた私を彼女は優しく抱きしめてくれた。

「奏は怒ってないの?」

世界が終わってしまって数日、彼女以外とは出会っていない。

「何を?」

とぼけたように言う彼女はもう泣いていなかった。

「私のしたこと。」

後ろめるように言う私に彼女は冷たく言葉を放つ。

「そうやって誤魔化さないと言えないようなことをしたんだ。」

満天の星空が輝いて辺りは静まり返る。

「はい。」

こんな会話を何度しただろう。

「最低だね。」

奏はそう言って私の手を取り立ち上がらせた。

「そろそろ、行こうか。」

彼女は微笑みながら歩き始める。

握った手は冷たく絹のように滑らかに指を絡めさせた。

「どこに、行くの?」

私の疑問に彼女は向日葵のような笑顔で答えてくれる。

「地獄だよ。」

そうだろうと思った。

辺りに充満する空気が、ひどく生い茂る木々が、私の罪の果実を実らせているように見えた。

「償えるかな?」

尋ねると彼女は痛みをおぼえる程に私の手を握る。

「また、そうやって今だけを見るんだ。」

そんな彼女の言葉が私に突き刺さる。

重く、鋭く。

それ以上、私が口を開くことはない。

硬く噤んだ唇からは時折、乾いた空気が肺から流れる。

皮膚が渇いて少し切れた。

歩けば歩くほどに次第に緑は失われて黒い大地が露出する。

あの星空は雲に覆われて、どうして視界があるのかわからないほどに暗くなった。

「静香。」

突然、彼女は私の名前を呟く。

「はい。」

空ろな返事をしてしまった。

「見せたいものがあるんだ。」

嫌な予感がした。

「なに?」

恐怖が反骨的にさせる。

「大丈夫、きっと喜ぶよ。」

彼女に手を引かれ進路を少し変えた。

どこに行こうとしているのか、ここがどこなのかもわからない私には皆目見当がつかない。

ただ間違いが無いのはろくでもない場所ということだった。

進路を変えてから風景がおかしくなる一方で、あの美しかった紫陽花が恋しくて振り返りたくなる。

やせ細った葉のない木が悶えるように苦しみ所々に飾られた枯れた花束、ひび割れた石膏像はその瞳を潰されている。

雲のように見えたものは虫の大群のようで羽音が響いては蠢いていた。

「どこに行くの?」

不安になる心をどうにかしようと口を開く。

「もうすぐだよ。」

彼女は振り向きもせずに言う。

どうして、そんなことが出来るのだろうか。

彼女は不安ではないのだろうか。

私はこんなにも不安なのに。

どうしようもない苛立ちが募る。

「まだなの?」

次第に私の言葉は無視されるようになった。

「奏。」

無言の彼女はひどく冷たい。

「私、反省してるよ。」

そんなことを呟いた時、彼女は遂に言葉を口にした。

「着いたよ。」

そこには一件の古い家屋があった。

煉瓦造りのその家はしばらく人が住んでいなかったのだろうと容易に想像がつく。

「ここはなに?」

「私の家。」

一言、そう言うと彼女は玄関を開いた。

中は思いの外汚れておらず。

家具なども綺麗に配置されている。

リビングであろう場所に通されテーブルを挟んで彼女と向かいあい、腰かけた。

テーブルの中央に置かれた花瓶には枯れた向日葵が三本、乱雑に突き刺さっている。

窓は全て黒いカーテンが閉められランタンの灯りだけが部屋の中にはあった。

「どうして、ここに連れて来たの?」

そんな単純な疑問を投げかける。

「どうしてだろう。

わからない。」

彼女はそんなことを答えて、私の顔を見ていた。

「クラスの皆は、どうなったの?」

「さぁ、知らない。」

そう言う彼女の瞳は少しだけ赤く潤んで見えた。

ポケットを漁るとハンカチが入っている。

「よかったら、使って。」

それを差し出すと彼女は瞳を大きく開いてため息をついた。

「どう、したの?」

恐怖が背筋をなぞった。

「わからない。

どうして涙が出るのかが、わからない。」

甘い匂いが充満し始めた。

一滴の涙がぽたりとテーブルに落ちると染み込んでいく。

ほんの少し花瓶の中の向日葵が赤く色づいたように思えた。

「まだ、私のことが好きなの?」

純粋な小恥ずかしい疑問をそのままに投げかける。

「わからない。」

彼女はずっとわからないままだった。

何も知らない子供のように、ただ精神の成長がそれを許さない。

この感情を知らないというには大人過ぎて、知っているというには子供過ぎた。

それが苦しみとなって彼女を襲っているのだろう。

恋などしたことがない私には到底寄り添えない苦しみだった。

「君は、昔からずっとこんなだったね。」

話題を変えようとしてなのか彼女はそんなことを言う。

「こんな?」

「そう、いつだってその場のことしか考えない。

違うな。

今の自分のことしか考えない。」

確信を突かれたように思えて、押し黙る。

「苦しいのは、そんなに嫌?」

返事はしない。

ただ、この時間が過ぎればいいと俯いた。

「もう、世界はなくなったんだよ?

少しくらい正直になったって、もうどうしようもないんだから。」

奏はまだ赤い涙を流している。

世界はもう終わった。

もう、世界はないんだ。

向日葵と目があって生唾を飲み込む。

「苦しいのは、嫌。」

ようやく私は答えた。

正直な、私の気持ち。

「苦しいのは嫌い、今が平穏ならそれでいい。

難しいことは考えたくない。

生きやすいようにずっと生きていたい。」

まるで子供のように唱えた。

「だから、誰かを好きにならないの?」

彼女はまるで予想もつかない返答をする。

「それは。

わからない。」

結局、私も何もわからないのだった。

恋なんて、したことない。

誰かを好きになんて、なったことがない。

昔からずっと私の中には私と他人しかいない。

自分のこと以外は極力考えずに誰かの思い出に残らないように、平穏な日々が私の唯一の願いだった。

「絶対にそうだよ。

あなたは人を思ったことがない。」

そう断言されると否定したくなるが私には出来なかった。

「私を最低って言った時、どんな気分だったの?

教えてよ。」

彼女は更に私を糾弾する。

「それは。」

黙ってしまう私を彼女はただ見つめていた。

しばらくの間ずっとそうしていた。

「ねぇ、静香。」

甘い声が聞こえた。

奏はテーブルに身を乗り出して私の顔を覗き込む。

「な、なに?」

思わず戸惑ってしまい、声が震える。

「どうして、そんなに苦しんでいるふりをするの?」

彼女はそう言って真っ赤な涙を舌で掬うと私にキスをした。

甘い味が口内に広がる。

同時に彼女の舌がそれを塗り広げた。

甘くて甘くて、おかしくなりそうだった。

彼女の唾液さえも甘いように思えてしまう。

長い、長い接吻だった。

口の中から脳を突き抜けるように官能的で甘美で、味覚を刺激するキス。

今まで口にした何よりも甘くて、苦しいキス。

唇と唇が離れるとテーブルは真っ赤に濡れて私の口周りにもそれは付着していた。

甘くて赤い、彼女の涙。

「急に、どう、したの?」

声はまだ震えている。

「キスしたの。

好きだから。」

そう言って笑う彼女は素敵だった。

「甘い。」

呟いて、唇を舐めた。

「恋する吸血鬼の赤い涙は甘いんだよ。

香りも、味も。」

彼女の微笑みには牙がある。

鋭く、悪戯な吸血鬼のそれだ。

何か頬が染まるのを感じる。

私は彼女に対してどんな感情を抱いているのだろうか。

この感情が何なのか、はっきりとはわからない。

ただ私の中で何かが弾けそうな感触がはっきりとあって体内を虫か何かが蠢いているような感覚と共に全身に溶けた。

「甘い。」

そんな単純な言葉ぽつりと零れると彼女は嬉しそうに瞬きをする。

「そう。

甘いんだよ。」

誰が弾いているのかはわからないが名も知らないクラシックが流れ始めた。

窓の外、荒廃した世界のどこかで誰かが弾いている。

まるで私と彼女とが今日ここで結婚式をあげるような。

そんな時間が流れ始めた。

ウエディングドレスは赤い涙。

彼女の瞳と私の唇に残るそれが愛の証。

「私は」

そこまで囁くと彼女が私の唇に人差し指で封をした。

「いらないよ。

どんな言葉もいらない。」

冷たい、氷のような言葉だった。

彼女との距離が突然に離れ、視界が大きく揺らぐ。

崖の上から押し飛ばされたような衝撃を感じる。

彼女が私を突き飛ばしたようだった。

「どうして?」

少し後ずさりをすると私は尋ねた。

彼女はにやにやとして、テーブルに乗り出したまま私を見下している。

「ねぇ。」

壁際に後ずさると背中を預けて催促をした。

彼女は尚もその嘲笑の笑顔を続けている。

「答えてよ。」

独り言のようになって言葉は室内に反響する。

それは寂しい独りよがりの悲しい演奏会のようで孤独だった。

「どうしてだろうね?

自分が一番知っているくせに。」

遂に彼女から放たれたセリフは、この物語を終わらせようとする言葉。

これ以上は、誰にでもわかる。

そう言いたげな、ひどく私を下に見た言い草だった。

背筋が凍るとはこういうことなのだろうかと眉間に皺がよる。

「知らない。」

彼女の瞳が鋭く私を睨みつけた。

「わからない。」

とぼけていればきっと誰かが何とかしてくれる。

今までだってそうだった。

私が苦しむ必要なんてどこにもない。

そう思い続けてきた。

どこからか迷い込んだ一匹の蛾が私の頬に止まって羽を休めている。

きっとこの甘い唇を吸っているのだと思う。

「素敵な虫だね。」

奏はそう言って蛾を掴まえるとどこかへ逃がしてしまった。

この甘い蜜を吸っては上手く飛べないのか、ふらふらと飛んでいたのが見え自分を投影する。

「さぁ、行こう。」

また奏に手を引かれ隣の部屋へと移動すると上へと続く階段が現れた。

「これは?」

恐る恐る尋ねると彼女は微笑みを見せる。

「行こう。」

答えてはもらえず、ただ階段を上らされる。

上へ上へとその階段は続いていて外から見えたこの建物の高さなどとうの昔に超えてしまったように思う。

「どこまで続くの?」

そんな私の問いは彼女には届かずに宙に消えた。

ただひたすらにその階段を上る。

終わりのないようにさえ思えるほどに長い階段はその姿の変化でもってして退屈を殺してくれた。

あの木造だった材質は今や植物の侵略によって姿を隠し、緑に苔むし、何かの草だろうかがほんの少しだけ背を高く伸ばしている。

しばらくすると少しずつだが花が咲き始め階段は美しくその姿を変化させつつあった。

「これは何ていう花なの?」

この永遠にさえ思える退屈と沈黙を打ち破りたくて私は声を大きく彼女に問いかける。

「さぁ、知らない。

でもきっとろくな花じゃないよ。」

彼女はそう言って花の一つを足で踏みにじった。

花びらが落ちて、めちゃくちゃに破れる。

胸が痛くなるほどに花は無抵抗で末路は哀れだった。

「どうして?」

こんなにも美しいのに、なぜ彼女がそう言うのかを理解できなくて尋ねる。

「こんな色の花、見たこともないよ。

きっと内側はもっと見たこともない暗い色をしているんだろうね。」

言い聞かせるように振り返り言う彼女はどこか狂気じみていて、この花に対する明らかな侮蔑を感じた。

「嫌い、なの?」

どうしてか納得が出来なくて、この会話を続けた。

「わからない。

嫌いかどうかも、好きかどうかもわからない。

でも、どっちかだとは思う。」

そんな答えにならない答えに胸が一段と苦しめられた。

「どうしたら好きになれるかな?」

まるで罪を認めない罪人のように私は喰い下がる。

哀れな子供か、いやもっと、羽を捥がれた羽虫のような。

それに私を感じて私を可哀そうに思った。

「例えば私が魔法使いで、時間を何度も巻き戻せたとしても、違う未来を選択できたとしても、わからない。」

その表情からは何も読み取れない。

「ちょっと待って。」

彼女の肩を掴み振り向かせるとそっと抱きせてキスをした。

決して甘くはないその唇にキスをした。

あの時、教室に充満した香りはどこにもない。

そう思っていた。

唇が離れるその瞬間。

ほんの一瞬だったが、甘い滴が一粒。

確かに私の舌に触れた。

どきりとして彼女の顔を見るが、彼女の瞳は乾いていて相も変わらずにあの何も読めない表情をしている。

「甘い。」

呟いたのは彼女だった。

「どうして?」

しばらくの無言が続く。

静寂の中でただ、私の心音だけがここにはあった。

「行こう。」

手を引かれ、また階段を上る。

その一言は重く、鋭く静寂を裂く。

痛みという言葉では言い表せないほどの血液が空間には充満していたと思う。

「冷たいんだね。」

私が呟いたのか、彼女が呟いたのか。

二人とも呟いていたのか。

答えはわからないが今は階段を上る音だけが響いている。

この長い塔はどこまで続いているのだろう。

また、あの静かな時間が流れ始めた。

体力は徐々に蝕まれ、じんわりと汗が衣服に染みている。

「まだ続くのかな?」

少しの息の乱れを強調して彼女に声をかけた。

「そうだね。

でも、もうすぐだよ。」

そう言うと振り返ることもなく足を速める。

もうすぐにここから出られるのかと思うと安堵が渡来するかと思ったが、その実はどういうわけか不安だった。

ここを出たときに自分がどうなるのか、そんな不安が去来する。

「ねぇ、この先には何があるの?」

それはまるで悪足掻きのような。

彼女は何も答えない。

ただ、階段を上る。

一段ずつ確実に踏みしめていく。

不安で胸が押しつぶされそうだった。

淡々と足音だけが響いていく。

そんな緊張の糸が張り詰め続けた結果、私は歩くことをやめ、その場に腰を下ろした。

「もう嫌だ。

どうしてこんなことをするの。」

涙も流さずにそう叫ぶと彼女を睨む。

そんな私を見下すように彼女は見ると優しく微笑んだ。

微笑んで同じ高さに屈む。

「どうしたの?」

それは優しい小鳥のさえずりのようでいて母親の子供を呼ぶ声にも似ている。

「もう、疲れたよ。」

そうすると、私はだだをこねる子供になるのだろうか。

「大丈夫。

もうすぐだから。」

優しく私の頬をなぞり頭を撫でる彼女の手は暖かく絹のように滑らかで、心の傷みの全てを奪い去って行くようだった。

「本当に?」

「本当に。」

でことでことがぶつかり、お互いの脳が接続しあう。

「私はどこに行くの?」

遂に私はもう一度それを聞く。

「恋の果て、愛の終わり。

かな。」

照れながらそう言う彼女はひどく無邪気な、それでいて残酷に優しく笑った。

「怖い?」

「怖くないよ。

人は誰しもがそこに行くんだから。」

そう言い聞かせるように彼女は説く。

「さ、行こう。

大丈夫、私も同じだから。」

腕を引かれ立ち上がると歩を進める。

「うん。」

私の返事は幼稚でいて無邪気と言うにはあまりにも邪悪で、自分がひどく醜く見えた。

「ほら、扉が見えたよ。」

彼女に言われ視線を上に持って行くとそれが見える。

何の変哲もない木製の扉。

少しだけ朽ちていてノブが錆びていた。

「これで最後なんだね。」

そんな呟きが彼女に聞こえたのかどうかはわからない。

ただ、そう思って言葉にした。

「行くよ。」

ドアノブに手をかける彼女を制止すると大きく深呼吸をする。

「私が開ける。」

覚悟を決めてドアノブを彼女から奪うと力強く捻る。

あの時、あの朝、学校の、教室の引き戸を開けた時のようにそれを開く。

冷たい風が流れ込んできて汗が乾いて少し寒い。

向こうに見えた景色は青空。

そこはかつて私が通っていた奏と同じ学校の屋上。

数メートル先にはきっと入学したての頃の私と奏がいた。

「あの、君は?」

「私は静香。

奏さんだよね?」

「そうだけど。

どうして知ってるの?」

「あんまり綺麗だから仲良くなりたいなと思って。」

「えっと。」

「嘘、冗談だよ。

これ、ハンカチ落としてたよ。

すごく甘い良い匂い。

柔軟剤?」

「あ、ありがとう。

でも、どうしてここにいるってわかったの?」

「さぁ。

でも、いっつもここにいるよね?」

そんな彼女らのやり取りを見て思い出す。

これは過去だ。

私と奏の出会いの過去。

彼女らはそれを再現している。

「どうして、こんなものを見せるの?」

私は思わず奏に尋ねた。

「これが、始まりだったんだ。

こんな他愛もないことが私にとっては始まりだったんだ。

私の涙を良い匂いだと言ってくれて、ありがとう。」

甘い匂いが漂い始めた。

「愛したかった。

好きだった。」

彼女はそんな言葉を優しく突き刺す。

青空は毒々しいほどに真っ青で雲一つない。

屋上と空、過去の二人と私達以外には何もない。

唇に甘い滴が垂れて口内に広がった。

「甘い。」

呟いたのは私だった。

「良い匂い。

すごく、良い匂いだ。」

彼女は隣で深く息を吸う。

私の酸素まで奪われるように眩暈がした。

「これが恋の果てなの?」

「そうだよ。

もうお終いなんだ。」

冷たく寂しい言葉が宙を泳いだ。

「間違えちゃった。

私。」

深い後悔が頬を伝う。

「仕方ないよ。

もう、戻らない。」

どうして彼女はこんなにも冷静でいられるのだろう。

どうして彼女はあんなにも平静を装えたのだろう。

心が苦しい。

「奏。」

彼女の名前を呼んで視線を向けた。

こちらを見た彼女と目が合って心臓が一つ叫んだ。

「好き。」

思いを口にすると一層に甘い香りは花をついた。

「そう。」

奏の返答は冷たい。

ただ、その表情からは安堵が読み取れる。

迷子になった子供が母親を見つけた時はきっとこんな表情をしているのだろうと思う。

彼女の手が私の頬に触れる。

私も手を伸ばして彼女の長い黒髪を流すと頬をなぞった。

「遅いよ。」

彼女は透明な滴を流す。

無色透明で塩辛い。

匂いなど感じない、そんな涙を流す。

「どうして?」

私の問いに彼女は答えない。

こんなにもすれ違うのなら出会わなければ良かったとさえ思う。

「君が一番、わかるだろ?」

どこまでも彼女は残酷だった。

腕を肩に回し彼女を抱き寄せる。

彼女の腕はほとんど動かなかった。

指先の動きすらも感じない。

ただ、暖かい。

「冷たい。」

「君も。」

私達は否定しあう。

嫌気がするほどにすれ違う。

「君は本当に悪い人だ。」

私達は最後のキスをした。

甘くて塩辛い。

そんなキスをした。

一度離れるともう一度キスをした。

二度目のキスは別れを告げるように短い。

「静香。

私は君を愛したかった。」

彼女はまだそんなことを言う。

そんなことを言ってハンカチを取り出すと私の頬を拭ってくれた。

「もっと早く、世界が終われば良かったのに。」

そう言う私に彼女は優しく微笑む。

この笑顔にどうして私は早く気が付かなかったのだろう。

そんな思いだけがこみ上げた。

もっと早くに私は私を捨てていれば、きっと彼女とのこの終わった世界は輝いていただろう。

私は幸せになれていただろう。

悔恨が募って行く。

過去がどうにかなってしまえばいいのにとさえ思う。

「奏の心はもう戻らないんだね。」

意味の無い言葉ばかりが私の口から溢れ出す。

こんなことをいくら囁いたところで彼女は気持ちは変わることなどないというのに。

「もう、お終い?」

そうやって時間を繋ぐ。

そんな自分を哀れに思う。

彼女の瞳は乾いたままだ。

吸血鬼とはどうしてこうも冷酷な生き物なのだろう。

感情がわかるということはどうしてこうも不便なのだろう。

「お終いだよね。」

私が最後にそうやって囁くと遂に彼女は返事をした。

「そうだね。」

嘘のような言葉で私を見送ろうとする。

互いの手が離れていく。

体温が感じられなくなっていく。

彼女が遠くなっていく。

「さよなら。」

そう彼女に伝えると過去の私達の間を裂くように駆け抜けると、フェンスに手をかけた。

それは思いの外低く簡単に飛び越えられる。

甘い香りに包まれて青空の下に私は散った。

まるで夢を見ているような、そんな瞬間だった。

遂に私は彼女に謝罪することなく、あまりにも邪悪なこの恋を終わらせた。