セグレ・メノア

 無意味の意味、無味の味。


最果ての中の最果てで、セグレ・メノアと唱えよう。


意味なき者の賛歌として、命なき者の墓標として。


全く無価値な愛としてのセグレ・メノア。


全く無意味な意味としてのセグレ・メノア。


嗚呼、セグレ・メノア。


今ここで。






  姉なる島


 夏、果てしなく暑い夏がここにやってきた。

私が私を見つめる時、汗が私を笑って流れ落ち、洗面台に張った水に滴る。

音は何重かに私の鼓膜に張り付くと重度の気怠さでもって私に体温の限界を伝えた。

部屋の中に冷房器具はなくただじんわりと体に張り付く気体で満たされている。

胸に張り付いたキャミソールの鬱陶しさが、長く伸びた髪の肌触りの悪さと相まってすぐにでもこの部屋を飛び出したくなった。

この部屋に入って数か月、夏の暑さを全く考慮に入れていなかったことを後悔する。

壁に張り付いた薄気味悪い染みが私を嘲笑った。

どうしてこんな苦しいことを続けているのか、私にもわからない。

ある日、街を歩いているときに突然話しかけてきた小さな少女が私に隔離されることを勧めてきた。

私は二つ返事で隔離されることを望むと、後ろに隠れていたのか黒一色の男たちに連れ去られてこんな部屋に閉じ込められてしまった。

なんだか、あの黒い男たちの中には黒猫一匹混ざっていたような気がした。

そもそも、私は隔離されることで一体何を得られると考えていたのか全く見当もつかない。

何か彼らは催眠術のようなもので私を錯乱させていたのではないかと考えた。

その悍ましい考えに戦慄すると、汗の混ざった洗面台に顔をつけて息を吐いた。

ぶくぶくと音を立てて弾ける泡が何滴かの水を私の長く伸びた髪に飛ばした。

そう考えると、この部屋にはいくつかの監視装置が仕掛けられていて私は常にその目に見られ続け研究されているのではないかと思った。

これはきっとこの国の法律に反するようなことで、私が真にこのことを声を上げて叫べばあの黒い男たちは面目が立たなくなって、偉い帽子を被った誰かに裁かれるのではないだろうか。

そう思うと腹立たしさがすこしばかり報われた。

しかし、この部屋から出る方法を知らない私には全くもってしてその方法がわからない。

これでは、彼らの思うつぼだと頭を振った。

髪が乱れて飛んだ飛沫が壁に当たって弾けた。

そうしていると部屋の呼び鈴が鳴った。

玄関を開けて外を見ると宅配だろうか。

夏にもかかわらず、それなりに暑そうな服に身を包んだ男がダンボールを持って立っていた。

誰ですか。

私の問に一切答えずに男は紙切れに名前を書けと促してきた。

名前、一瞬私は悩んで自分の名前を考えた。

黒木でどうだろう。

黒木でいいんじゃないか。

黒木にしよう。

そう結論付けて、渋々その紙切れに名前を書いてやってダンボールを受け取った。

すると、男は礼を言って玄関を閉めるとどこかへ行ってしまった。

なんだろうか、この中身は、私はさほど重さもない電子レンジほどの箱を床に置くと貼ってあるガムテープをペリペリと剥がしていった。

中には一つの黒電話が入っているだけだった。

私はおもしろがって黒電話をとると耳に当て、もしもしなどとふざけてみる。

猫の鳴き声がその向こうから聞こえて来て不気味さを感じ、思はず投げ捨ててしまった。

がしゃりと音を立てて崩れるそれは中から何粒かの塊を吐き出した。

この塊が一体何なのかという疑問が頭を巡った。

同時に、どこかで見たことのある形だなという感情が脳をよぎった。

私は思いついたかのように押し入れのふすまを開けて中の畑を見やった。

少しの芽が顔を出す押し入れの中の畑はただ隙間風にそよいでいた。

さきほどの黒電話が吐き出した粒を畑に植えると水を撒いてふすまを閉めた。

そんなわけないかと内心思いつつもわくわくとする感情が確かにあった。

そんなことをしているとピーっと警笛の音が聞こえる。

もう電車が来る時間かと思うと一日の流れの早さを感じた。

私は鞄をひとつ肩から下げると部屋の扉を開けて駅へと向かった。

台所を抜け、裏戸を開けるとそこにはホームがある。

私がホームに足をつけるのと同じくらいのタイミングで電車が到着した。

帰るころには黒電話がなってるのかななどと考えながら電車に乗り込んだ。

部屋の中を走る黒い電車に。

電車の中は空調も整えられており快適だ。

乗客は私一人のようで空いている。

席に腰かけると鞄の中から本を取り出した。

本のタイトルは「セグレ・メノア」黒い表紙に赤い文字の本。

宇宙人が私を連れ去って青い地球を眺めながら何かを必死になって書き続ける夢を見た翌日に、私の机の上に置かれていた。

こんな不気味なもの捨ててしまおうかとも思ったが中身が気になってしまっては読まずにはいられなかった。

この場合は中身が気になったというよりも前日に見た夢の内容が頭に残っていて、たまたまそれと関連づいてしまったがために興味を持ったというのが正解なのかもしれない。

ただそうであったとしても本に興味を持ったというのは事実なので本に興味があるという表現が適切なのだろうか。

いや本に興味があるということと本の中身に興味があるということは少し違うような気もした。

そんなことを考えているうちに本のページは進んでいってしまう。

悲しいことに読み終えたページに戻ることはそう簡単にはいかないものだった。

そう何度も同じページを繰り返し読むことは本に対する冒涜にも感じることがあるからだ。

例えば、先ほどから私の前に座っているこの首のない女性は本を読むことができないかもしれない。

そう考えるとこのように本を読み進めるというのは私が今こうして本を持っていることの特権であり、それを持たないものは本を読むことすらできないからである。

何ページか繰り進んで内容はどうでもいいということにさえ気が付いてしまった。

本の内容はどうでもよくて、私はこの本を読んだという現実が重要であるということに気が付いてしまったのだ。

目の前で私を覗き込むこの首のない女性は本を読むことのできる私を羨ましそうに見ているのに違いないのだから、私は内容に関係なくそれを誇るということが大切になるわけである。

しかし、私はある仮説に気が付いて少しばかりの鳥肌を覚えた。

今、私の隣に座っているこの首のない女性が私が開くこの本を読んでいる可能性があるということである。

この仮説が正しいとすれば、私はこの女性のために本のページをめくっているにすぎないのだ。

だとすれば、本を読んでいることを誇れるのはこの女性なのであって私ではない。

あの。

私は思はず口を開いていた。

女性からの返事はなかったが、窓の外を流れる景色たちは次々に返事をした。

海や街などは頭のおかしい人間を見るように返事をした。

それには少し腹が立った。

しかし、何よりもあの大きな流れる雲が舌打ちをしたことがどうしても許せなかった。

私は車窓を開けて雲に向かって怒声と罵声を浴びせかけた。

雲は怒ったのか黒く広がり辺りを夜にしてしまった。

星々は雲を庇うかのように私を注意してきた。

大丈夫ですか?

あの首のない女性が私の顔を優しい目つきで見ている。

私は一言。

すいません。

そう謝った。

ここまで読んで私は本を閉じた。

少しの眩暈と頭痛を覚えた。

そして表紙をもう一度見直した。

「セグレ・メノア」

ただ、そう書いてある。

裏を見ると本のあらすじのようなものが書かれていた。


 無意味の意味、無味の味。


最果ての中の最果てで、セグレ・メノアと唱えよう。


意味なき者の賛歌として、命なき者の墓標として。


全く無価値な愛としてのセグレ・メノア。


全く無意味な意味としてのセグレ・メノア。


嗚呼、セグレ・メノア。


今ここで。


本当にただの意味のない文章の羅列なのではないかと不安になった。

これを読み続けて一体何が得られるのだろうか。

そう思うと途端に馬鹿らしくなった。

ため息をつくと冷蔵庫を開けて冷えた麦茶を引っ張り出して飲み干した。

途端に手持ち無沙汰になったので、退屈を覚える。

とりあえず、私は押し入れを開けて中を見た。

特に何も変わった様子はない。

そんなすぐには芽を出すこともないかと思うとふすまを閉じた。

そうなると退屈がまた襲ってくる。

仕方がないので、あの本を手に取って読み始めた。

無意味の意味を考えるために。

一口麦茶を口に含むと体温がとても下がったように感じた。

ところで今日はまだ一本も煙草を吸っていないことを思い出した。

頭を整理したくなって一本取り出して火をつける。

そういえばかつて私の友人だった女が煙草を毛嫌いしていた。

どうしてそんなに嫌うのかと聞いたら、もやもやが晴れて現実が透明感を帯びるのが怖いと言っていた。

きっと普段から現実に支配されていたのだなと今になってみれば思った。

果たして、私は現実から逃れるため整理するために煙草を吸うが普段を現実に支配される人間は煙草なんてものを吸ってしまって思考が整理されてしまえばより深くに現実が刺さってしまうのだなと考えて煙草が頭を整理する効果があるなんて聞いたこともないことに気が付いた。

そういえば、自分はいったいいつから煙草を吸うようになったのだろうかと疑問に火が付いた。

そんなことはどうでもいいじゃないか。

そう言って煙草の灰が落ちる。

今を生きるために行う動作に過去を求めてしょうがないよ。

そう言って煙草の煙が昇る。

そもそも私はどうしてこんなくだらないことに思考の時間を割いているのだろうか。

そうだ、あのセグレ・メノアを読んでからだと気が付いた。

何が無意味の意味だと思った。

意味がないから無意味なんじゃないか、無意味に意味なんてありはしないんだ。

そう気が付いて、この本が何の意味もない無駄でしかないということに気が付く。

そもそもセグレ・メノアなんて言葉はこの世界に存在しないのだから、勝手に造語を作ってどうこうしようというほうが奇天烈だ。

でも、言葉なんて基本的には全て人類の考えだした造語であって古くから使われているというだけで何か意味を持っているだけなのだとしたらこのセグレ・メノアという言葉も他の言葉と差なんて存在しないのではないか、無意味の意味ということがこの言葉の意味なのだとしたらこの言葉を成立させるために書かれたこの本もまた意味を持つということになる。

しかし、ここでひとつの矛盾が起きることになる意味が無いことを無意味としているのに意味がそこに生じてしまってはそれは無意味ではなくなってしまうということになる。

ここまで書き連ねられた全く意味のない文章でさえもセグレ・メノアの一言で意味を持ってしまうのだ。

意味を持ってしまうということは無意味ではなくなるということになり、それはある種の無意味に対する冒涜のようにも感じる。

セグレ・メノアとはなんなのか、私のその言葉に執着までも感じ始めている。

意味の無い無意味という言葉の意味とはなんなのか、あの詩のようなあらすじに書かれる無味の味という言葉にもあらわれるその理不尽な暴力が私の脳に傷を負わせているようにも感じた。

無意味なんてものは存在しない、無意味に対するアンチテーゼとしてのセグレ・メノアなのではないかと思ったがすぐにそれは否定された。

セグレ・メノアは無意味を否定してはいない。

無意味の意味を説いているように感じた。

私はこの言葉の意味を知るために煙草の火を消すと街へと駆け出した。

無意味の意味を知るために、セグレ・メノアを知るために。

雑踏と喧騒に溢れかえる街は牧歌的を愛する私に牙をむいた。

だが、今はそんなことはどうでもよかった。

大通りにはもっと人が溢れかえった。

こんなところでは考えて歩くこともままならない。

私は大通りに背を向けると路地へと足を踏み入れていった。

思はず外に駆け出してしまったが、本当に外に出て答えに近づけるのか今更になって不安に思った。

そうは言っても折角外に出たのだから、何か小さくとも収穫くらいは欲しいものだと思い目を凝らして歩みを進めた。

黒猫が私に怯えて逃げ出すのも、ビルとビルの室外機がうるさく回っているのもカラスに漁られたのかゴミ箱からゴミが散らばっているのも、人二人が通れるほどの細い道も、何か答えをくれるわけではなかった。

諦めて帰ろうかという思いを感じたその時、路地の奥に小さな建物があるのが目に入った。

ガラス張りの壁には何枚かのポスターが貼ってある。

旅行がどうとかツアーがどうとか、旅行会社なんだろうか。

そのポスターに交じってとりわけ私の興味を引くポスターがそこにはあった。

「セグレ・メノアを知る旅」と題されたポスターには何人かの少年が輪になって火を囲むイラストが添えられている。

金などさほども持ち合わせてはいなかったが、私は店の扉を開けていた。

いらっしゃいと私を迎え入れたのは大きく腫れた綺麗な右目に髪を短く整え、ところどころに十円ハゲのある中年の男性であった。

私はセグレ・メノアについて問いかけた。

セグレ・メノアとはなんですか。

貼り紙を見られたのですね。

今なら枠が空いています。

すぐにでも予約できますよ。

男性はそう言った。

私は金はそう持ち合わせていないので。

そう言って口を噤むと、男性はにこりと笑って答えた。

本を持っていませんか。

本を持っていれば代金は結構ですよ。

なんとも怪しい言葉だった。

本を持っていれば、ただで旅行できるなんてことがあるのだろうか。

だが、私にはそこまでの思考をして抑制することはできなかった。

私は本を見せると、書類に名前を書いた。

明日の朝十時に出発しますので、それまでにここに来てください。

そう話を聞いて店を出た。

家に帰るとすぐにシャワーを浴びた。

明日が待ち遠しいと思ったのは、久方ぶりであった。

シャワーの流れる音が頭に響いた。

バスタブの中では五本足のタコが泳いでいる。

暑くはないのかい。

私が聞いても彼は泳ぎ続けている。

優雅ではないがみすぼらしくもなかった。

ただ、泳いでいる。

時折、麦わら帽子が懐かしいと戯言のように呟いた。

私は脱衣所に麦わら帽子を飾ってあったのを思い出してびしょ濡れながらも行って持ってきてやるとタコは懐かしい嗚呼懐かしいと言ってそれを被った。

ただ、麦わら帽子を被るために陸に上がった彼はシャワーから流れる熱い水に当たって茹蛸になって死んだ。

あまりにも哀れなその最後に私は涙を流しに流した。

その涙はきっとどこかの遠い国で雨になって大地に降り注ぐだろう。

大地に降り注いだ雨は川となって海に流れるだろう。

そうしたら、きっとまた新しいタコがそこで命を育んで新たな家族を作るだろう。

それは生命の循環であって、たった一つの小さな風呂場から溢れる命の輝きに他ならなかった。

涙ながらに、風呂を出るとインターホンが鳴って部屋の中に響き渡った。

私はこんな時に何事かと外へ出ると足元にあのタコが立っていた。

五本の足を真っすぐに伸ばしてタコは立っていた。

あなたの涙のおかげでまたこうして戻ってこれました。

私はそのタコを抱きかかえると部屋の中へと戻っていった。

おかえりなさい。

そう呟きながら。

タコをテーブルに乗せると私は一枚写真を撮ってポケットへと入れた。

あなたの涙にお礼がしたい。

タコはそう言うと押し入れのドアを開けた。

中はトンネルのようにただ真っすぐと続いており、遥か遠くに小さな光が見えた。

行きましょう。

タコは私の手を引くと残った四本の足でまた歩き始めた。

私は麦わら帽子をタコに被せてやって手を引かれるがままについていった。

トンネルの中は真っ暗でタコの他に何も見えなかった。

それでも私は安心しきっていた。

この真摯なタコがいったいどこへと連れて行ってくれるのか、楽しみでしょうがなかった。

出口だろうか光が近づくにつれて、太鼓や笛の音がトンネルの中に響き始めた。

まるで祭りのさなかに来たように感じて童心に帰った。

もうすぐですよ。

タコがそう呟くと、トンネルが終わって大きな神社のようなところに出た。

乱雑に並べられた鳥居と提灯が賑やかな雰囲気を作り出している。

そして、年端もいかぬ少年たちが太鼓を叩いたり、笛を吹いたりしてそこかしこを歩き回る狐や鬼を楽しませていた。

ここを真っすぐです。

タコはそう言ってまた手を引き始めた。

並べられた石畳の上を私はペタリぺたりと裸足で歩き進んだ。

一際大きな鳥居の前に着くとタコは私の手を離してそこに座り込んだ。

私も同じようにそこに座り込んだ。

鳥居の向こうにある大きな建物の扉が開いて着物を着た美しい女性が私の前へと近づいてきた。

嗚呼、哀れなる人よ。

タコに騙されてこんな所に来てしまった。

なんと哀れな人よ。

こんな所に来てしまった。

次の私が今のあなた。

私はこんなことを望んではいなかった。

愚鈍なタコよ、なぜこんなことをしたのか。

女性は血の涙を流して訴えた。

タコもまた血の涙を流して答えた。

あなたを助けるにはこうする他なかったのです。

哀れな人よ。

愚鈍な人よ。

この私が罪を背負うことであなたを助けられるのならば。

タコは女性の手を引くと来た道を帰って行った。

私はいつの間にいた狐たちに連れられて建物の中へと入った。

豪勢な着物を着せられた私は広い座敷の真ん中に座らされる。

あなたが次のあなたです。

狐たちはそう言って部屋を出て行った。

そうしてここに座って数百年の時が経った。

何かに呼ばれたような気がして外に出ると、あの愚鈍なるタコが次の私を連れてそこに座り込んでいた。

私はまた血の涙を流す。

本を閉じると既に十一時を過ぎていた。

明日は十時にはあの店に行かなければならない。

私は眠りにつこうとベッドに倒れ込んだ。

時計の針が回る音がして、私は眠りについた。


 十時、私は約束の場所にいた。

といっても店の前で立っているだけなのだが、あの中年の男はまだ出てこない。

これで本当に大丈夫なのだろうか。

一抹の不安が胸に芽生え始めた頃、小型のバスが私の目の前に留まった。

バスの運転席にはあの男が座っていて、私に乗るように催促してきた。

中には私しかいなかったがバスは動き始めた。

セグレ・メノアの島へ向かいましょう。

そうアナウンスが入った。

一時間ほどバスは走っただろうか、港に私は着いていた。

ここからは船での移動になります。

そう言って私を小さな船に誘導する。

私が船に乗り込むと、あの男は去っていった。

海は緩やかに揺れていて眠りを誘いそうなほどに心地よかった。

昼頃の海原は快晴であった。

昼食をどうぞ。

そう言って若い女が軽い食事を運んできた。

中にはタコが入っていて、昨日の話を思い出して少し嫌な気分になった。

それでも腹は空いているので私はしっかりと完食した。

まもなく到着いたします。

そうアナウンスが入るとしばらくして船は止まった。

まるで無人島のようなそこはムシムシとして陰鬱とした雰囲気だった。

先ほどの女がやってきて私に挨拶を始める。

今日、このセグレ・メノアの島を案内させていただきます。

あなたの妹です。

まるで荒唐無稽な挨拶に私は苦笑いを浮かべるほかなかった。

行きましょう。

そう言って妹は私を後ろに歩き出した。

今のところはただの島のように感じた。

あの、本当にここでセグレ・メノアの意味がわかるんですか?

私は妹に尋ねた。

あそこを見てください。

そう言って指さす先には海に向かってブランコが崖のギリギリに設置されている。

あのブランコには今の一度だって人が座ったことはないんです。

妹はさらに続ける。

誰にも乗られることなく、ただそこに作られたブランコ、作ったのが誰なのかそれはわかりませんがそれでもあれはブランコなんです。

誰がどう見てもブランコなんです。

でも、あれに乗った人間は誰もいない。

遊ばれたことのない遊具に意味があると思いますか?

私は即座に応える。

あそこにブランコを作ることに意味があったんじゃないですか?

例えば、写真に収めると綺麗に写るとか。

妹は即座に否定する。

それじゃあ、ダメなんです。

それではブランコである意味がない。

あれをブランコと誰かが呼んだ以上は遊具でなければならないんです。

ただ、そこにあるだけでは無価値な存在。

例えば、本当に写真のためにあのブランコを作ったとしても価値が生まれるのはブランコではなく写真なんです。

お尋ねしますが、あなたはあのブランコになりたいですか?

私は口を噤んでしまった。

風が吹いてブランコはキシキシと揺れた。

まるで悲しいものを見るかのようにブランコを見ていると少女が歩いてきてブランコに座った。

そして、ゆっくりと動かし始めた。

私は安堵していた。

本当はちゃんとブランコとして使われていたんじゃないか。

次の瞬間、少女は海に向かってブランコの勢いそのまま飛び降りてしまった。

妹はゆっくりと口を開いた。

誰も乗ったことがないんですよ。

あのブランコには。

そう言ってまた歩みを進め始めた。

ブランコの真横を通り過ぎたが、乗ってみようとも、ましてや崖の下を覗いてみようとも思いはしなかった。

島をしばらく歩いた。

そして気づいたことがいくつかあった。

妹はこの島を姉なる島と呼んでいること、私たち以外にまともな人間はいないということ。

そして、この島には生物がほとんどいないということだ。

異臭にも近いほどの甘い果実が犇めくように実っているにも関わらず、ここにいるのは私と妹とどうしてか奇天烈な行動を繰り返す数少ない人間だけだった。

だが、静寂ではなかった。

島のあちこちから呻き声や喘ぎ声、果ては叫び声が聞こえる。

声の主は探せども見当たらない。

不思議なことに奇行を繰り返す者たちはひたすらに無言だった。

では、この声はどこから聞こえてくるのか私には全く見当がつかない。

妹は私に突然話しかけた。

あなたの疑問をいくつか解消しましょう。

一つは声の正体。

それはきっとあなただけが聞いている幻聴です。

きっとあなたの頭の中が原因なのです。

次に生き物はどこにいるのか、中にいますよ。

そう言って果実を一つ千切ると地面に投げつけた。

一際大きな叫び声と共に果実は裂けて破れた。

中には大量の蛆が潜んでいる。

それは果実という住処を破壊されるとお互いを食らい始めた。

惨たらしく見るに堪えない光景がそこにはあった。

ここは姉なる島、外に出る必要があるのでしょうか。

中で、甘い甘い姉の中で一生を同胞と共に生きるのは悪くないのではないでしょうか。

成虫になる必要があるのでしょうか。

セグレ・メノアとはそういうことです。

例えば、あなたが蛾の幼虫だったとして成虫になることになんの意義がありますか?

子孫繁栄?種としての義務?

どうしてそんなものに苛まれる必要があるのでしょうか。

一生幼虫でいいのです。

蛾になったからなんだというのですか。

そこに価値はありますか?

命の重みは変わりますか?

ずっと五歳でいいじゃないか。

ずっと子供でいいじゃないか。

セグレ・メノアを歌っていようではないか。

暖かい雨が降ってきて、ふと空を見上げてみた。

紫色のそこには数多の雨雲があって今にも落ちてきそうなほど重くのしかかっている。

妹の演説は続いた。

誰にも価値がないようにあなたにも価値なんて微塵もない。

大人になったからなんだというのですか。

この蛆が蛆のままでいるようにあなたも幼虫でいていいのです。

最初から最後まで最初でいて、最後くらい最初で死んでいいのです。

そうは言っても年齢はかってに重なりますか?

年齢がなんだというのです。

そこの蛆虫は四十を超える年頃です。

八十の子供でも結構です。

頭が痛くなってくるのがわかった。

成長を放棄することが正しいことだとは微塵も思えなかった。

ここは狂っている。

私は確かにそう思った。

そう思って踏みとどまった。

ここでは狂っているのは私なんだと気づいてしまった。

私だけが年を重ねて大人びている。

なんて卑怯な命なんだと感じ始めた。

もう少し、もう少し時間が欲しい。

私は妹にそう懇願した。

妹は笑って了承してくれた。

もっとこの島を旅しましょう。

姉なるこの島はいつだってあなたのお姉さんなのだから、好きに歩けばいいのです。

私だってそうします。

妹はそう言うと、服を脱ぎ果実を千切ると食らい始めた。

口の端から蛆虫が零れ、地面を這いずった。

それは、禁断の果実から流れ出た種のようにも見える。

白く、蠢き、成長しない真実の種。

私がそれを知り、受け入れるには時間がかかりそうだった。

妹はそれに夢中で私など最早、眼中にない。

私は妹を置いてこの島を歩き始めた。

何かもっと素敵なものがこの島にはある。

そう感じていた。

妹を背に甘い果実の茹だる匂いを浴びながら、森の中へと歩いて進む。

この先に待つ、セグレ・メノアを見るために。

森は鬱蒼と生い茂り、甘い甘い果実が犇めきあっている。

その芳醇な香りは異常なほどに重苦しく、この一つ一つにあの量の蛆がいるのかと思うと怖気がした。

私は深く、森の深くに入っていった。

その高い湿度は脳の奥が乾いていないような不快な感情を私に抱かせる。

どこまでも続いているかのような森は意外な形で終わりを告げた。

少し開けたと思ったその時、島の中ほどだろうか村落のようなものがそこにはあった。

十数個ほどの木造建築が並んでおり、一番向こうには鳥居のようなものが見える。

しかし、あの奇妙な果実しかないこの島で人がどうやって生きているのだろうか。

私は一歩を踏み出せずにいた。

ここの村の者は優しいですよ。

すぐ背後から声がして驚いた。

振り返ると妹がそこにいて、私に微笑みかけていた。

口の端から蛆虫が零れている。

私は一人でなくなったことに安心したのか、村の中へと足を踏みいれた。

不思議なことに建物はいくつか並んでいて、生活の跡もそれなりに残っているにも関わらず、人の気配が全くしなかった。

本当にここに人がいるのだろうか。

そんな不安がこみあげてくる。

だが、先ほどの妹が言った。

ここの村の者は優しいという発言から考えるに、ここには人が住んでいるはずだった。

私は勇気を振り絞った。

誰かいませんか。

少し大きな声で話しかけた。

しばらくの静けさの後、鳥居の向こうで鈴の音が一つ響いた。

あの向こうで集会か、儀式のようなことでもしていたのだろうか。

悪いことをしてしまったと自分を責めた。

行きましょうか。

妹はそう言うと、私の手を引いて鳥居の方へと歩き始めた。

私は思わず変な声を上げていたと思う。

妹の手は果実の汁だろうかべとべととしていて気持ちが悪かった。

私は少し抵抗したが、歓迎されていますよ。という妹の言葉を信じることにした。

鳥居は近づけば近づくほどに大きく、荘厳で偉大であった。

向こうには石の階段が長く、長く続いている。

これを登るのは骨が折れるな。

私はそう思いながらも一段一段を踏みしめていった。

その先で私を待っていたものはあまりにも現実離れした世界だった。

神社のような建物とその境内であろう場所で十数人の人々が行っていたのは儀式などではなく拷問にも等しいような行為だった。

中央に組まれた祭壇の上には人が横たえられており。

その二十本の指には釘が打ち込まれ、蝋燭を灯されている。

腹は抉られているのか血を流し、土を詰められ鬼灯が植えられていた。

辛うじて息はあるようで、布の擦れるような吐息が聞こえる。

その周辺には何人かの村人が正座し、しきりに言葉を唱えていた。

セグレ・メノアと。

私は恐怖に飲まれそうになったが、妹がそれを阻んだ。

大丈夫です。

この村ではこれが年に一度行われるのです。

それがこの村がここにあるべき理由なのですから。

人間の寿命が五十年を超えるようになって、それが当たり前になっている。

余りにも長いとは思いませんか?

彼らはそれを理解しているのです。

ですからこうして、年に一度誰かを殺す。

まるで、儀式のようでしょう。

綺麗だとは思いませんか?

素敵なことです。

彼らは死ぬ年齢を決めているのですか?

私は妹に尋ねてみた。

そうではありません。

彼らは五十年以内に必ず、死にます。

あのように、指を打たれ腹に鬼灯を植えられ殺されます。

毎年、死ぬ人間はランダムで一歳の者が死ぬときもあります。

もし、この死ぬ機会を逃してしまったらどうなると思いますか?

この村で五十年以上生きてしまった者がどうなると思いますか?

私は生唾を飲み込んだ。

明日にはきっと彼は死ぬでしょう。

そうしたら村人に聞いてみようではありませんか。

きっと答えてくれますよ。

彼らは心優しいのですから。

妹はそう言うと、私の手を引いて階段を降り始めた。

今日はどこかに泊まるのですか。

良い旅館がありますので。

そう言う彼女の目はひどく虚ろだった。

少し、村を外れた所にその旅館はあった。

とても豪勢に作られたその旅館はあの村の様相とはまるで逆の存在だった。

中に入ると、より驚かされることになった。

麝香の香りが立ち込めるその内部は柱が全て赤く塗りつぶされており、何か宗教的な雰囲気を醸し出している。

私は、無味と書かれた部屋に案内された。

ここでおくつろぎを、夕食の前にこの旅館の当主がセグレ・メノアについてお話に参られますので。

そこまで読んで私は本を閉じた。

案内されたこの部屋は畳の香りが充満して懐かしさを覚えるような作りだった。

柱が全て赤く塗りつぶされていることを除けば。

私は疲れている。

とても、疲れている。

少し横になろうとした時、入口のふすまが開いた。

この旅館の当主をしています。

どうか、ここでセグレ・メノアについてお話をさせてください。

本と同じ展開に、私は少しばかりの眩暈を覚えたが、当主を中に招いた。

机を挟んで向かい合った私たちは軽い挨拶をして、本題に入った。


 セグレ・メノアについて 当主と私の会話


 率直にあなたはセグレ・メノアをどう思っていますか。

困惑と焦燥を覚えた。

わかりません。

ただ、それについて知りたいのです。

そうですか。

例えば、あなたの目の前に何がなんだかわからない何かがあったとします。

それを前にしているあなたにはいくつかの選択肢が与えられています。

食べる、触る、嗅ぐ、見る。あるいは、無視する。

どれを選びたいと思いますか。

時計の音が絶えずうるさいのを認識した。

見るのではないでしょうか。

では、どれがセグレ・メノアに近い選択肢だと思いますか。

無視、でしょうか。

残念です。

全てがセグレ・メノアなのです。

どうあっても、それがその実単純な何かであったとしても。

そこに意味の分からないものがある。

もしかして、意味が分かるようなものであったとしても。

それはきっとあなたにとって何の意味もないのですから。

苛立ちを覚える。

適当なことを喋っているだけではありませんか。

そうでしょうか。

そうかもしれないですね。

でも、これもセグレ・メノアだと思いませんか。

今、私たちがしているのは何の意味もない会話でもしかしたら、ほんの一握り意味がある会話かもしれない。

あなたは意味がお好きなんですね。

まるで狂人だと思う。

こんなことを話し続けても時間の無駄ではないでしょうか。

時間に意味があるとおっしゃるのですか。

時間は有限です。

有意義に使いたい。

そうですか。

では、有意義な話をします。

いずれ、死んでしまうとしてもですか。

だからこそ、有限で尊いものです。

では、死は無意味ということですか。

そんなことはありません。

食い気味になる。

死に意味があるなら時間は無意味ではないですか。

どうしてそうなるのです。

拳を握る。

死に意味があるのなら、そこに向かうまでのこの時間は無意味でなければならない。

そうは思いませんか。

時間の終が死であるというならば、死でもってして一つの意味となるとは思いませんか。

ならば、その死をより高尚なものにしたいと思うのは当然です。

あの村人たちが遂げる死は高尚ですか。

価値観は人によって変わるものです。

彼らにとって高尚なものが私にとってもそうであるとは限らない。

それは無意味なことではないですか。

結局、判断するのは他人の意思であって正解を知りうるものは死んでしまった自分しかいないというのでは、あまりにも無意味かと。

死は解釈でしか語られないということですか。

呆れを覚える。

私が黙り込むと、彼は笑ってしまった。

夕食を用意いたします。

少しばかり、お待ちくださいませ。

そう言うと、部屋を出て行った。

全く無意味な時間を過ごしてしまった。

肩の力を抜いた。


 しばらくして夕食が運び込まれてきた。

それを前にして、私は声を荒げた。

並んだのはいくつかの果実だった。

その他の食材は見当たらない。

当主は笑って答えた。

この辺りでは名産品なのですよ。

というか、これしかありませんので。

そう言うと足早に部屋を出て行ってしまった。

苛立ちを覚えながらも、腹は空いているのでひとつ口にしてみる。

甘い果汁と中からは噛むと潰れるような粒が溢れてきた。

これはうまい。

先ほどまでの怒りも忘れ、私は夢中でこれを食べていた。

全て食べ終える頃には腹はしっかりと満たされていた。

後で、彼には謝罪をしないといけないかもしれない。

そんな自責の念が浮かび上がった。

腹を満たした後は風呂にでも入ってしまいたい気分になる。

部屋を出ると、私は風呂を探し求めた。

しかし、旅館の中は広く道に迷ってしまっていた。

どうしたものかと、頭を抱えていると当主の男が煙草を吸っているのが見えた。

なるほど、彼に一つ尋ねてみようではないかと私は彼に近づいて風呂の場所を訪ねた。

風呂に行くのは、一時間ほど後が良い。

彼はそう言った。

どうしてか。

風呂からは川が流れるのが見えるのですが、後一時間もすれば蛍が飛び回るでしょうから。

その答えに私は納得すると、道を尋ねて部屋へと踵を返した。

去り際に先ほどの謝罪を伝えながら。

何やら疲れていたのか、部屋に戻ると居眠りをしてしまったようだった。

時計にはちょうど一時間ほど先が示されている。

私は腰を持ち上げると風呂への道を歩み始めた。

確かに、風呂は広く露天からは川の流れるのが一望できた。

だが蛍などは一匹たりとも見当たらない。

日が悪かったのだろうかと肩を落とすと、川上に切り立った崖のようなものがうっすらと見える。

おーい。

当主の声がそちらから聞こえる。

私は蛍はいませんねと声を張り上げた。

いますよ。

そう返事が返ってきた。

遠目に彼が何か液体を被ったのが見えた。

少しして、彼の全身を大火が包み始めた。

熱い。

そう叫び声が聞こえて彼は崖から飛び降りてしまった。

もう、蛍はいない。

私は急いで風呂を出ると、旅館の中に誰かいないかと探し始めた。

だが、人は一人も見つからない。

人の気配など微塵も感じなかった。

どうしたものかと悩んでいると、私の部屋のふすまが開いているのが見える。

確か、私は風呂に出る時は閉めたはずだが。

そう思って中を確認しに行くと妹が座り込んでいた。

私は先ほど、当主が飛び降りたことを説明すると彼女は笑って茶を飲んだ。

それでいいんです。

きっと彼にはそれがいいんです。

そう言って私にも茶を進めてきた。

何が何やら私には全くわからなかったが、どうしようもないので茶を飲み干した。

まだ熱いそれは私の舌を火傷させた。

もう寝ましょう。

妹はそう言うと部屋を出て行った。

どのみち、私にはそれ以外にどうすることもできなかった。

用意されているのは花柄の豪勢な寝床だった。

紫苑のような花だった。

布団に入り込むとすぐに眠りについた。













  母なる夢


 ゆらり、ゆらりと体が揺れるような感触が私を包みこんだ。

どうしてだろうか、非常に心地良い反面、幾許かの不安を感じていた。

目を開けて事情を確認してみる。

どうしてだろうか、私は湖の中にぽつりと船を漕いでいる。

遠目に見える湖畔には霧が立ち込めていてよく見えないが、数人の子供たちがこちらに手を振っているように見える。

空を見上げてみると満月が私を見つめていた。

ただ、じっと見つめていた。

どこからか、時計の秒針が刻む音が聞こえる。

こんな湖にも時計なんてものがあるのだなと思った。

また、辺りをきょろきょろと見渡していると電信柱が多く沈んでいるのがわかった。

かつて、ここは街か何かだったのだなと推理をした。

沈んでしまったのか。

そう言って湖面に映った満月を見つめた。

湖面の満月はただ空の満月を見つめている。

私が船を漕ぐのと同じように波に揺れながら。

湖の真ん中の辺りまで漕ぎ進めただろうか、畳三枚ほどの小さな浮島があった。

島の上では麦わら帽子を被った子供が鞠をついて遊んでいる。

こんなところで何をしているんだい。

私が問いかけると少女は鞠を抱きとめた。

お母さん。

少女がそう言うと鞠はいつの間にか生首になっている。

娘を湖畔まで送ってはもらえませんでしょうか。

かわいそうに、きっとこの親子はここに沈んでしまったんだな。

どういうわけか、娘だけが生き残って母親は成仏できないでいたんだな。

私はそう思うと不憫で仕方なくなった。

少女を船に乗せてやると、湖畔に向かって漕ぎ始めた。

次第に私はその少女の持つ生首が非常に美しいものであると気が付いた。

なんて綺麗なんだろうか。

湖の上には三つ。

満月と、水面に浮かぶ満月と、美しい生首が互いを見つめ合っている。

なんと綺麗な光景だろうか。

私は固唾を飲んでいた。

しばらくすると、金魚の群れが船の周りを取り囲んだ。

その赤色のひとつひとつが私たちを美しく描き出した。

なんて綺麗な夜なんだろう。

有意義な時間とはやはり短いもので、湖畔はあっという間に目の前に広がった。

もう着いてしまうのだな。

そう思うと私は悲しい気持ちが溢れて止まらなくなった。

この美しい景色を一人きりのものにしてしまいたいという思いが胸を締め付けた。

少女は眠り、生首は満月を見つめている。

私に迷いはなかった。

少女の肩を掴むと湖に突き落とした。

大きな波音を立てて少女と生首は沈んでいった。

ただ、抗うこともせずに目を閉じゆっくりと沈んでいった。

私は一人で湖畔に上がった。

湖を振り返ると、真っ赤な湖がそこには広がっていた。

いつの間にか空の満月は生首となり、水面の満月は鞠になっていた。

私は大変なことをしてしまった。

そんな焦りと一緒にあの光景を私一人のものにできたという喜びが甘い果実を齧ったかのような甘美な喜びとして到来している。

私は叫んだ。

この美しい湖にあの美しい満月にこんなに素晴らしい夢はない。

母なる夢だ。

これは母なる夢だと。

少しして湖畔には子供たちが集まりはじめていた。

もう、そんな時間か。

私はそう思って子供たちに手を差し伸べる。

だが、誰一人としてこの手を取ってくれるものはいない。

お前が殺した。

何度も何度もそう指を指された。

なんということだろうか。

私は、私が味わった幸福を誰かにとられるくらいならとあの美しい光景を殺してしまったのだ。

こんな喜劇があるだろうか。

あの美しい光景はもう二度と訪れることはない。

腐った生首の満月と血生臭い湖に成り代わってしまった。

私は大いに笑った。

この喜劇に大きな罪悪感を感じたためだ。

私が殺した。

子供たちといっしょになって歌を歌った。

人を殺す歌だ。

みんな陽気に笑っている。

腐り落ちた肉の雨が私を打った。

なんと心地がいいのだろうか。

なんと美しくはないのだろうか。

このままこの世界で歌い続けたい。

そう思っては弾ける子供たちが印象的だ。

弾けた子供からは桑の実が溢れ出た。

ひとつ摘まんで食べてみると世にも不思議な味がする。

私は狂ってしまったのだろうか。

そんな風に時間を過ごしていると目の前にたくさんの鳥居が並んでいるのがわかった。

根元には紫陽花が並んでいる。

この奥に進んでみよう。

私は好奇心の思うままに歩んでみることにした。

一人の紫陽花が私に話しかけた。

これから先、ずっと歩き続けると五人の何かがあなたに語りかけるだろう。

耳を澄ませてよく聞くんだよ。

そう言うと全て枯れた。

そうか、五人の何かが私に話しかけるのかそれはとても興味深い。

歩みを進める速度が一段と早くなった。


 一人目 


 どこへ行かれるのですか。

そう話しかけてきたのは、生まれて間もない赤ん坊であった。

どこへ行くのかと聞かれると答えられないのが現状である。

さて、真っすぐに歩いてみようかと思っているのです。

あなたはここで何をしているのですか。

どこかで何かをしていなければならないというのは誰かが決めたことですか。

私はただ、鳥居の下で赤ん坊としてあるのです。

どうしてこんなところにあるのですか。

ここにいるからではないでしょうか。

深い意味なんてないですよ。

意味もなく鳥居の下で赤ん坊があるというのはいささか疑問であった。

親はどうしたのですか。

わかりません。

親があるから私があるのですか。

そういうわけではないですが。

あなたを産んだ人がいるはずではないですか。

きっといるでしょうね。

それはあなたかもしれません。

そうか、この夢を見ているのは私だものなぁ。

それで、私が憎いですか。

いいえ。

ここにいられて私は幸せです。

本当に幸せです。

ほんの一度でもあなたに会うことができたのですから。

そんなに幸せですか。

とても幸せです。

意味もないこの世界で意味なくあなたに会えたことが何よりの幸せです。

赤ん坊はそう言うと夜泣きを始めた。

うるさい。

耳障りなそれは次第に大きくなっていく。

私はそれを置いて歩き出した。

背後に夜泣きの声が小さく消えていった。


 二人目


 こんばんは。

そう挨拶をしたのは年端もいかぬ少年だった。

こんばんは。

私は挨拶を返すと、彼に話しかけた。

君はさっきの赤ん坊だね。

少年はにっこりと笑顔になった。

おかげでこんなにも成長できましたよ。

元気そうでなによりだった。

あなたが満月を母に変えてくれたおかげでずっと寂しくはありません。

歩き疲れたでしょう。

ここに腰かけてはいかがですか。

そう言う少年の手の先には腰かけにはちょうど良い大きさの石が生えていた。

これはこれは、ありがとう。

そう言うと私はそれに腰かけた。

ひんやりと冷たいそれは歩いて火照った体には心地よい。

君もここにあるのだろうか。

そうです。

私はここにずっとあるのです。

あなたがこうしてここに来ようが来ないとしても。

私はずっとここにあるのですよ。

そうなのか。

私は今まで気づかなかった。

ただ、知っているだけだったのだ。

それはつらいことではないのか。

私には何もありません。

ただ命だけがあります。

しかし、皆私の将来は大切だと言ってくれます。

だからきっと私は希望にあふれていると思います。

少年の真っすぐとした瞳は希望と汚泥に満ち溢れている。

いつかきっと報われる。

そう信じている。

なんと愚かなことだろうか。

報われることなどありもしないのに未来を見ている。

余りにも清く澄み渡っていた。

私は少年の頭を撫でた。

ただ、一回。

ほんの少しだけ。

撫でた。


 三人目


 少年と別れて少しすると、今度は青年が立っていた。

私とよく似た青年だった。

もしかすると君は私なのか。

青年は微笑んだ。

そうです。

私も、今までの私も全てあなたなのです。

少ししたら今のあなたに会えるでしょう。

それはとても喜ばしいことですよ。

自分を別の人間の視点で見ることなんて、誰もできはしないのですから。

怖いですか。

私にはほんの少しの恐怖があった。

確かに恐ろしい。

それは会わなければならないのか。

会わなければなりません。

それがこの夢の結末なのですから。

きっと大声で飛び起きますよ。

私は知っていますから。

私は怖くなった。

怖くて怖くて歩くのをやめたくなった。

この頃からです。

周りの人間が勝手に私に失望し始めたのは。

呪いですよ。

こんなものは。

生まれてすぐに名前という呪いを受けました。

その呪いが今になって効き始めている。

死を想起したこともありました。

どうして私はこんなにも弱いのでしょうか。

そして、何も持っていないのでしょうか。

壊れたくなってきました。

早く、行ってください。

会って下さい。

こんな意味のない夢は早く終わらせなければならない。

いつまでも浸っていては毒ですよ。

青年は私を急かす。

早く歩み去ってくれと何度も促す。

私の足は岩のように硬直していた。

そんなに怖いですか。

青年は私に少しのキスをした。

少しづつだが体に血が巡って動き始めた。

行って終わらせよう。

私は歩みを始めた。

青年にさよならを告げて歩き始めた。

きっとこの夢の終焉は良いものではないだろう。

それでも、こんなものはただの夢なのだから。

私を止める理由になんてならないのだから。


 四人目


 青年の言った通り、私がそこには立っていた。

はじめまして。

私は私に挨拶をした。

初対面でもないのにどうしてかそう言った。

どうして、こんなところに来てしまったんだい。

夢なんて見てはいけないじゃないか。

君にそんな資格はないじゃないか。

そう責め立てる私は泣いている。

本当はこうして夢を何度も見たかった。

そう言いたげに私が泣いている。

嗚呼、この鳥居が吹いた風に壊されて私を下敷きに崩れ去ればいいのに。

そう思った。

この後は誰がいるのか。

私は私に聞いた。

知っているんでしょう。

私にはわからない。

知っているとも。

わからないというのに。

夢の結末はいつも想像通りだったじゃないか。

一回でも、ほんの一回でも夢に裏切られたことがあったか。

いつもいつも私は私以上にはなれないで落ちていく。

そうだったじゃないか。

だから夢を見ないようにしてたんだ。

さっさと終わらせてくれ、こんな苦しいだけの夢。

こんなところに居続けるのはもうごめんだ。

私は崩れ落ちていた。

何をそんなに苦しんでいるのだろうか。

夢の中の私は狂うに値していないのか。

そんなこと考えるだけ無駄じゃないか。

終わらせてくれと頼まれたんだ。

終わらせてやろう。

この偏った夢を終わらせてやろう。

この先に結末があるのなら。


 五人目


 それは赤ん坊だった。

胎児と言った方がいいのかもしれない。

鳥居の先には深い湖がまたあった。

戻ってきてしまったのだろうか。

真っ赤な湖と生首、水面の満月が見つめ合う。

湖がそこにはあった。

私は胎児。

真っ赤な湖に溺れる胎児。

苦しくはない。

ただ、暖かい。

母の愛がここにはあった。

暖かい。

これは母なる夢だ。

湖底に少女の死体があった。

浮かんではこない。

私は胎児。

ここに沈んでいる。

願わくば、誰も見つけないで欲しい。

私はここに沈んでいたい。

この真っ赤な湖で溺れていたい。

私は胎児。

溺死する胎児。


セグレ・メノア。


















  大いなる地獄


 私は飛び起きていた。

余りにも現実的な恐ろしい夢を見ていたような気がする。

汗が衣類に浸み込んでいた。

机の上に置かれた水を一杯飲みほした。

頭がちかちかと点滅している。

早く覚醒したい。

おはようございます。

部屋の中に妹が入ってきた。

少し、苛立ちも感じたがなんとか覚醒できたようで感謝も覚えた。

村の皆様に挨拶に行きましょうか。

妹はそう言うと私に着替えを押し付ける。

朝が苦手な私には苦痛だった。

だが、早くしろと言わんばかりの妹の目が私を焦らせた。

わかったよ。

私は早々に着替えると部屋を出た。

どのみち、早くあの寝床から離れたかった。

なんだかあそこにいると気が狂いそうだ。

外はあまりに晴天で、体を刺す灼熱の太陽が鬱陶しかった。

暑い。

私がそう言うと妹は笑った。

まだまだですよ。

妹の肌は病的に白い。

村に近づくと腐敗臭が漂った。

余りの臭いに鼻を塞いだ。

妹が声を上げると、村の者だろうか。

包帯だらけの女が歩いてきた。

この方がそうなのですか。

女がそう言うと、妹は頷いた。

私は軽く会釈をする。

着いてきてください。

そう言うと女は背を向けた。

その背を頼りに私は歩き始めた。

どこへ行くのですか。

私の問に女は答えない。

代わりに妹が言葉を発した。

地獄ですよ。

この村に伝わる大いなる地獄。

愉快なところですよ。

私は少しばかり気が引けた。

しばらくして、洞穴のようなものが見えた。

この奥です。

そう言うと中へと入っていく。

外とはまるで別の世界のように冷たく、涼しかった。

この扉を開けて中へと入ってください。

女はそう言うと私の背を押した。

私一人ですか。

そうです。

ここから先はあなた一人で歩んでください。

きっと、わかりますから。

そうですか。

私は決心をしてその扉を開けた。

中からは、暑い風が吹いた。

仄暗く、ゆらゆらと何かが揺れるように光源が不気味だった。

瑪瑙のような廊下がずっと続いている。

怯えながらも私は先へと進んだ。

長く、長く続くこの廊下がいったいどこまで続いているのか。

私はとても不安になりつつあった。

始めに扉を出てからどのくらい時が経っただろうか。

絶えず続く瑪瑙が私の目をおかしくさせる。

何か十数年の時を生きたようなそんな気分にさえなった。

もしかすると、私は本当に地獄に落ちてしまったのかもしれない。

不思議と瑪瑙のひとつひとつが人の顔に見えてくる。

私を見て嘲笑っているかのような、そんな陰鬱とした瑪瑙だった。

私はこのまま永遠に歩き続けるのだろうか。

そんな風に思い始めたころ。

右手に大きな光が見えた。

初めての変化に私は喜びを隠せないでいる。

思はず駆け寄ってみると、大きな窓のようだった。

窓の外に見えるのはまさに地獄だった。

こんな変化ならなければよかったのにとさえ思うほどの地獄。

見るも絶えないその地獄を前にして私は思はずのけぞった。

嘔吐さえしていたと思う。

私はしばらく動けなかった。

ここは灼熱の地獄です。

そう声が聞こえた。

気づくと私の前には女が立っていた。

女は淡々とこの地獄について説明をした。

生前、何かを天秤にかけたものが落ちる地獄。

何かを得るために何かを捨てた者が落ちる地獄です。

今、裁かれている少女は役者でした。

将来を期待され、必ず成功するとまで言われた少女です。

しかし、彼女の母親は病に伏してしまいます。

そこで彼女は将来の名声を捨てて母親に付きっきりで看病しました。

父は彼女が生まれた時には他界しています。

そんな母親を看てやれるのは彼女だけだったのです。

彼女は母親の命と自らの名声を天秤にかけ、母親を選びました。

そしてこの地獄に落ちました。

灼熱の炎で焼かれた鉄球をいくつもいくつも飲み込んでいます。

口内は焼けただれ、中身はすでに溶け始めました。

それでも飲み込まなければなりません。

腹が一杯になって、皮が破けると鬼によって中身をくりぬかれ縫合されます。

そうするとまた鉄球をいくつもいくつも飲み込むのです。

口内に焼け付いて離れないときは鬼が引きちぎり押し込みます。

私はあまりの凄惨な内容に汗を流していた。

名声を選んでいれば彼女は地獄には落ちなかったのですか。

そんなことはありません。

何かを天秤にかけることが罪なのです。

全ては平等なのですから。

それでは地獄に落ちない人間なんていないのではないですか。

いいえ、何もしないことが正しいことなのです。

幸福は不幸の上に平和は争いの上にあります。

全ての正は負の上に成り立つのです。

何もせずに、ただそこにある石のように静かに生きることが正しい命の在り方なのです。

あなたはいかがですか。

何かを天秤にかけたことはありますか。

私は返事ができなかった。

次の地獄に行きましょう。

次の地獄はとても綺麗ですよ。

また、瑪瑙の廊下を歩き始めた。

長い旅がまた始まった。

今度は一人でないだけ、正気を保てそうであった。

瑪瑙は人の顔には見えない。

瑪瑙は瑪瑙だった。

女は無言で先を歩き続ける。

私はその背を追いかける。

それが続く。

長々とそれが続いた。

地獄というのはこんなにも退屈なのか。

私はそうまで思った。

もしかすると私は既に地獄に落ちていて、これが私の受けるべき裁きなのかとも思った。

それは私を絶えず不安にさせた。

何度か女に話しかけたが返事はない。

次の地獄まではこの時間が続くようだった。

また光が零れるのが見え始めた。

ようやく、この長い時間から解放されるのだなと思うと気が楽になった。

同時に、あの凄惨な地獄を思い出して見たくないという思いも募った。

ただ、後者の気持ちは露と消えることになる。

窓から見える景色は本当に美しく、綺麗なものだった。

美しい、緑の大地に色鮮やかな花々が咲き誇り、見たこともないように美しい蝶が辺りを舞っている。

夜空から覗かせる三日月は淡く辺りを照らし出していて、星を散りばめたような小さく仄かな光源が飛び回っている。

これが、地獄ですか。

私は思はず、尋ねてしまっていた。

あの蝶たちは皆罪人です。

自ら命を絶ってしまったものたちがたどり着く地獄。

ここは、楽園地獄。

彼らはああやって何度も何度も、幼虫と生まれては蛹になり蝶と羽ばたく。

そこに障害はなく、何度も何度も繰り返し蝶になる。

外敵もなく、食料が尽きることもなく。

あの青い柄がとても綺麗ではないですか。

命尽きるまでああして生を謳歌するのが彼らの贖罪なのです。

尽きれば与えられる生がどれほど無価値で美しいものか。

ここを飛び回る全ての蝶に価値のない命が宿っている。

私はあまりの美しさに声を失っていた。

思はず、口を開いたままにするほどの絶景であった。

自ら命を絶つことは罪なのでしょうか。

私から搾り出た声はただ、その一言であった。

死は解釈としかなり得ません。

死の意味は、誰にもわからない。

例え、本懐が自死であったとしても。

残された者には解釈でしか語れない。

そんな儚いものが罪でないと言えますか。

死は罪です。

死は終わりではない。

必ず人に与えられる罪。

人は死を持つ限り罪人になるのです。

私は、地獄とはなんと理不尽で罪深いものなのかと気づいた。

これでは、地獄に落ちないものなどいないのではないか。

私は少しばかりの怒りと大きな諦観を抱えていた。

ええ。

女はそう言うと喋らなくなった。

ただ、目の前の美しい景色を見つめている。

私もそうすることにした。

この地獄にある美しい楽園を見守ることにした。

女が次の地獄に行こうと囁くまでは。

だが、一向に女が動くことはなかった。

私は遂にしびれを切らせて尋ねてみる。

次に地獄へは向かわないのですか。

ええ、あなたには必要のないことですから。

私には必要がないのですか。

ええ、ここまでで大丈夫なのです。

これ以上は必要のないことなのです。

地獄とはそういうものです。

女の言うことの意味はよく分からない。

では、私はここからどうすればいいのですか。

ここから引き返していくのです。

この瑪瑙の廊下を引き返して歩いて帰って行くのです。

あなたも同じですか。

私はこの地獄の人間ですから、ここから出るわけにはいきません。

一人で、ここから帰るのです。

この長い廊下を一人で引き返すのかと思うと身が震えた。

ここで、楽園を見ていてはだめですか。

私の希望は叶わなかった。

それはできません。

この瑪瑙の廊下は回帰の廊下。

あなたはここを戻り見つめなおすのです。

或いは新たに見つめるのです。

この瑪瑙がそれを教えてくれますから。

女はそう言うと蝶になって楽園へと羽ばたいていった。

まるで窓などないかのようにすっと溶けて羽ばたいていった。

私はまた一人になった。

瑪瑙を歩き始める。

少しずつ瑪瑙が変化していくのが私にはわかった。

いつの間にか瑪瑙の廊下は吊り橋となっていた。

瑪瑙の壁は空となり、床は木の板に成り代わった。

歩くたびにぎしぎしと揺れるのが分かる。

やはり、私は地獄に落ちていたのか。

そう思うほどに高く、恐ろしい吊り橋だった。

下は見下ろせど見えず。

遥か向こうには雄大な山々が腰を据えている。

私は手すりに掴まりながらゆっくりと歩いた。

すると、どこかから何かの鳴き声が聞こえてくる。

悲しみを湛えたどこか物悲しい声だった。

次第に鯨の鳴き声のようにも聞こえるようになった。

どこから聞こえるのだろう。

私は下や辺りを見渡してみた。

あの山の向こう、その奥に大きな影が揺らめくのが見える。

あれはなんだろうか。

山ほど巨大な何かが空を泳いでいる。

少しだけ霧が晴れて姿が見えるようになってくる。

真っ白な鯨がそこにはいた。

声を上げて泳いでいる。

それを見ているとどうしてか悲しい気持ちになった。

ただ、悲しい気持ちになった。

物悲しく、涙を流し始めている。

たった一人の悲しい鯨はまるで私のように感じられた。

自分を見ているかのようなその偉大なる存在に私は畏敬の念を感じている。

その鯨をまねるかのように私は歩き出した。

鯨の鳴き声に吊り橋の軋む音が重なる時、さらに私の胸は締め付けられる。

橋の周りに蓮華の花が咲き始める頃にはもうそんな季節かとさえ思った。

遥か下方から伸び、咲き誇る蓮華。

私は一本一本のその花びらに慈愛を見た。

寂しい。

その感情が形になって咲き乱れたのだと思った。

雄大な仄暗い空を泳ぐ巨大な白鯨。

私は遂に声をかけた。

君はずっと一人なのかい。

彼は何も答えずにただ鳴き続けた。

早く渡り切ってしまおう。

そうしなければ、私も鯨になってしまう。

ゆっくりとだが正確に私は一歩を踏みしめる。

次第に橋は坂のように吊り上がっていく。

この橋は本当に出口に繋がっているのか不安になってくる。

それはいつの間にか階段になっている。

あの仄暗い空も巨大な白鯨もいなくなり、そこにはコンクリートの街並みを下方に夕焼けが差し込んでいる。

街に光はなく、人が住んでいる気配もなかった。

ただ、街がそこにはあった。

夕焼けに焼ける廃墟群は冷たいようで暖かい雰囲気を醸し出す。

何か意味があるようで全く無意味なようにも感じた。

あの女は言っていた。

見つめなおすのだと。

この瑪瑙は回帰すると。

私は考える。

その言葉の意味を、私に与えられた本懐を。

考えて、一歩一歩階段を上っていく。

だが、答えは出ない。

あの鯨も、この街も。

意味があるようでいて意味がないようにも感じる。

私はそもそもどうしてこんな所にいるのだろうか。

そうだ、セグレ・メノアについて知りたかったのだ。

あの黒い本の意味が知りたかったのだ。

セグレ・メノアとは何なのか、私はそれを知るためにこんな所までやってきたのだ。

なのに、人々が私に教えようとするのは意味ありげなことばかり。

それの答えになるものは今の今まで教えられていない。

もしかすると、ひょっとすると、本当は既に教えられているのではないか。

私が気が付いていないだけで、本当は知っているのかもしれない。

この街を見ていると少し答えに近づいたように感じる。

私はここを見たことがある。

僅かに既視感を覚え始めた。

意味があるようでない。

その言葉が妙に引っかかった。

そもそも意味とはなんだろうか。

意味がなければ意味はないのだろうか。

無意味ということもまた意味の内の一つなのではないか。

無味もまた味覚が感じる味の内の一つであるように。

価値がなければ無価値なのだろうか。

無価値もまた価値の内の一つなのではないか。

そもそも価値のあるものなど、意味のあるものなどあるのだろうか。

そんなものは個々が勝手に与えたものに過ぎない。

共通認識として存在すれば。

では、共通認識として存在できないものは存在するのか。

そこに存在するということはそれを認識する私とそれを肯定するもう一人が必要となるのではないだろうか。

では、今私が思考を巡らせているのは共通認識として存在するものを前提にしているのでは。

それでは欠陥が生じそうでもある。

私の中でぐるぐると何かが回るのを感じる。

階段を上ることをやめて頭を抱えた。

もう少しでわかる。

この切なさがひりひりと胸を締め付けた。

そうしている内に、街のサイレンが鳴り響いた。

行かなければ。

私はまた階段を上り始める。

どうしてか、先ほどまでぐるぐると回っていた異物はどこかへと消えた。

ただ、階段を上った。

雨が降り始めた。

冷たい雨だった。

冷たい。

私はそう口に出していたと思う。

また景色がどこかで変わるのだろうか。

そう思った。

だが、この街並みだけは変わらない。

永遠に夕焼けの差し込むままであった。

そうか。

私はそう呟いた。

まるで意味の無い意味ありげな言葉だった。

果てなく続く階段に脚は痛みを覚え始める。

何千年もの時を生きたように思う。

果たして一瞬なのかもしれない。

何にせよ、私の目の前には扉があった。

これで終わる。

私はそこに手をかけ勢いよくそれを開いた。

そこには誰もいない。

薄暗い洞穴だった。

皆、待ちくたびれて帰ってしまったのだな。

そう思うと更に出口に向かって歩みを進める。

今度はあっという間に出口についた。

そこは何もないただの森だった。

こんな所、私は知らなかった。

あの村はどこへ行ってしまったのだろう。

私はしばらく歩き回った。

ただ、森が広がるばかりのそこを。

何度か声も上げてみた。

終いには疲れ切って大きな一本の木に腰かけた。

一本の木は大きな果実一つを実らせている。

私は虚ろな目でそれを見つめていた。

果実は少しだけ揺れると動きを止めた。

つい、実ってしまいました。

彼は確かにそう言った。

私は怒りにうち震えていたと思う。

ありとあらゆる罵詈雑言をその果実に投げつけた。

果実は少しずつ萎れていく。

聞くに堪えない悲鳴をまき散らしながら。

それはどのくらい続いただろうか。

果実は完全に萎れるとぽとりと落ちた。

私はそれを拾い上げると皮を破いた。

中にはいくつかの種が転がっている。

辺りを見渡すとこの森にはこの木以外には一本たりとも木がないことに気が付いた。

私は何か所かで土をすくって種を植えた。

どのくらいかかるのかはわからないが、いつかきっとこの種は森になるだろう。

深い緑を湛えた美しい森に。


 私は思はず嘔吐していた。

余りにも意味の分からないこの本をここまで読んだことを後悔している。

台所ではゴキブリが這うのを見た。

ため息をついて水を一杯飲みほした。








  僅かなる現実


 私は日々というものが嫌いだ。

同じことの繰り返し。

痛みを知らない私はここを出ようとはしない。

四畳半に一人になっていることに気が付きもせず、私は同じことを繰り返す。

それにしてもこのセグレ・メノアという本は時間の無駄であった。

一体どうしてこんなものを読んでいたのか皆目見当もつかない。

電話機が音をたてて着信を知らせる。

普段なら絶対に出ないのだが、少しでも変化があれば退屈な毎日ではなくなると思い電話にでることにした。

私が受話器をとると音は鳴りやんだ。

もしもし。

そう声をかけると向こうからも声が聞こえた。

テレフォンカウンセリングの寺田と申しますが、お母さまからご依頼を受けましてお電話させていただいたのですが。

私は最悪だと思った。

どうして出てしまったのだろう。

すぐにでもこれを切ってしまいたい衝動に駆られた。

それでは今までと同じだと私は踏みとどまった。

そうだ、少しからかってやろうそう思った。

セグレ・メノアをご存じですか。

セグレ・メノア、ですか。

一体それは何でしょうか。

受話器の向こうでは困惑する声が聞こえる。

書籍なのですが、私はそれを読みまして少し感化されてしまいまして。

カウンセラーのあなたの意見をお伺いしたいのですが。

は、はぁ。

寺田は戸惑っているようだった。

まず、冒頭に詩のようなものがあるのですが聞いていただけますか。

わかりました。

寺田は渋々といった様子で返事をした。

この時、私の気持ちはどんなものだったのだろうか。

喜びも何もなく。

ただ、何もないようにも感じる。

自分自身、セグレ・メノアの詩など覚えてもいなかった。

だから、私はわざわざあの本を開いてそれを読み上げたのだ。


 無意味の意味、無味の味。


最果ての中の最果てで、セグレ・メノアと唱えよう。


意味なき者の賛歌として、命なき者の墓標として。


全く無価値な愛としてのセグレ・メノア。


全く無意味な意味としてのセグレ・メノア。


嗚呼、セグレ・メノア。


今ここで。


いかがでしょうか。

私は寺田に意見を求める。

なんだか、難しい詩ですね。

私には意味はあるようでいて実はないようにも感じますが。

そうでしょうか。

きっと何か意味が隠されていると思います。

一緒に考えてみてはいただけませんか。

カウンセリングをさせていただいた後でも大丈夫でしょうか。

私はその言葉で怒りを覚えた。

私は大丈夫です。

そう叫ぶと受話器を叩きつけていた。

なんだあの男は全くつまらない。

こんな詩に意味がないことなんてわかっているさ。

そんなもの私の人生と同じだ。

意味なんてないただ与えられただけの人生。

揃いも揃って皆私を異常だと言うんだ。

私は監禁されているんだ。

ここから外へは出られないんだ。

思はず壁を掻きむしっていた。

爪が少し剥がれて血が落ちた。

私の腕周りは傷だらけだった。

全て自分でつけたものだ。

今日はもう寝よう。

これ以上はつまらないだけだ。


 翌朝、私はインターホンの音で起こされることになる。

一体なんのようだと玄関に近づいた。

寝起きだったためか、私は扉を開けてしまった。

そこには私の母の姿があった。

母はほとんど泣いている状態だった。

ずけずけと中に入ってくると私を怒鳴り始めた。

最悪の一日が始まるようだった。

どうして。

何度この言葉を聞いただろうか。

あまりの回数に気がおかしくなりそうだった。

母のヒステリックは昔から異常だった。

そんなあなたが私を作ったのだと私は声高に叫んだ。

これは悪手だったようだ。

母のヒステリックはますます加速した。

私は不意に打開策を思いついた。

お母さん、あのデパートってまだあるのかな。

母は半狂乱ではあったがなんとか言葉を紡いでくれた。

昔、あなたと二人でよく行ったデパートのことかしら。

久しぶりにあそこに行ってみたい。

どうしてか、これは心からの願いだった。

母は少し困惑しているようだった。

どうしてそんなことを言うの。

わからない。

でも、そこに行くと私は変わることができる気がするの。

母はきっとほんの少しの希望を抱いただろう。

そう。

そう言う頃には落ち着いていた。

私は母と一緒にかつてのあのデパートに向かった。

この屋上でよく、母に遊んでもらったのを思い出す。

お母さん、私わかったよ。

屋上から見つめる景色はあの地獄で見た街並みと同じだった。

どうしてか差し込む夕焼けもサイレンの塔も同じだった。

私にこれ以上先はなかったんだ。

何を言ってるの。

母には私の言っていることが伝わっていないようだった。

セグレ・メノア。

私はそう呟いてここを飛び降りた。

私にこれ以上先がなかったのは、私がここで終わるからだったんだ。